聖霊が見えない女の子
高校の廊下に少女のとげとげしい声がこだました。 「この話をするのはあんたがしつこいことにうんざりしたからで、心を許したからじゃないから」 図書室へ向かう通路の日当たりの悪い角で、明菜は言った。 「あたしには犬が見えないの。あんたたちが持ってる、黒くてきれいな板に写ってるはずの犬が。可愛いでしょって聞かれてもわからないし、鳴き声を聞いてって言われても聞こえない。意味、分かる?」 明菜の前に立つ背の高い少女、雫は教科書を胸に抱えておずおずと言った。 「犬だけが見えないのですか?」 「犬の写真も、動画も。猫も、人も、ガンダムも、ボカロだって見えないし聞こえない。私が情報の授業のとき一人だけパソコンに触ってないの気付かなかった? 機械が映す物、発する音、何にも見えないの。メールも電話もできない、そんな人間と話したいって、いったい何を?」 明菜は目を見開いて叫ぶ。眼鏡はしていない。 明菜は知っている。 クラスメイトが『あの子視力は悪くないのにね』と噂していることを。 『なんでスマホが見れないんだろうね』と言っていることを。 雫は背を伸ばして言い返した。 「本の話をしたいんです」 「本?」 「本の話ができないかなって、声を掛けました。本、お好きなのでは? 図書室でよくお会いしますよね。この前読んでた『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』、私も」 「あたしは!」 早口になりかける雫の言葉を、明菜は遮った。 「話せることなんてない!」 空っぽの廊下を足音が駆けて行った。 体育担当の教師が忘れ物を取りに行くと言って出て行ったっきり、戻らない。 クラスメイト達がこっそり持ち込んだスマホをいじるのを横目に、明菜は独り、体育館の隅に座っている。 背の高い誰かがそばに座った。雫だ。 「これは独白だと思ってほしいんですけど」 そう言うと、雫はゆっくりと話し始めた。 「精霊が見えない宣教師がいました。彼は、アメリカからアマゾンの奥地へ、神の教えを告げ知らせるために行きました。森に住む人々は彼を友人として受け入れてくれましたが、彼の教えには耳を貸しませんでした。 自分たちは目に見えないものは信じない、と言うのです。 さて、ある朝彼が目を覚ますと、外で人々が騒ぐ声が聞こえてきました。精霊がいる、と誰かが叫んでいます。声の方に行くと、川岸に大勢の人が押しかけて、向こう岸を指さしています。 『精霊がいる!』 『我々を脅かしている!』 みんながそう言うのですが、宣教師には何も見えません。するとそばに彼の小さな息子がやってきました。 『何か見えるかい?』 と宣教師が聞くと、子供は見えないと答えました。どれだけ目を凝らしても、二人には川の上に枝を張る木々の濃い緑が見えるだけで、精霊など見当たりませんでした。 宣教師は森での生活を続け、やがて信仰を捨てるに至りました。しかしその後も、彼が精霊を見ることはありませんでした」 雫はそこで一息おいて 「この話を知ってからずっと考えているんです。精霊は本当にいたんだろうか、って」 明菜がぽつりと言った。 「出典は」 「ダニエル・エヴェレットの『ピダハン』です。市立図書館にもあります」 ふうん、と言って明菜は立ち上がった。体育館の向こうで教師が呼んでいた。 ――――アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を跳梁するリル、その雌のリリツ、疫病をふり撒くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者ラバス等、数知れぬ悪霊共がアッシリヤの空に充ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰も聞いたことがない。 中島敦『文字禍』 凍える風に吹かれて落ち葉が路面を右往左往している。 夕日が作るバス停と明菜の影の横に、長い影が並んだ。 明菜が固い声で言う。 「こっち西回り。あんたいつも東でしょう」 「今日は図書館に行きます。明菜さんもですか?」 雫がそう言うと 「やっぱやめる」 その場を去ろうとする明菜のセーターを、雫が慌てて掴んだ。 「お邪魔しませんから」 明菜はしぶしぶ元の位置に立つ。 腕時計を見た。バスの到着時刻は過ぎていた。 雫がスマホを見ていう。 「遅れてるみたいです」 そんなことはスマホが使えなくてもわかると心の中だけで言った。 あたしはすぐに毒を吐く、悪い癖だと明菜は思った。 下校時刻から少し経っていて、辺りに生徒の姿はない。 クラスメイトは今頃、駅前でカフェオレでも飲んでいるのだろう。 カラオケかもしれない。 彼女たちの笑い声は、あたしのところまでは届かない。 「本、好きなの?」 明菜は問いかけた。 雫は不意を突かれて固まり、それからこくこくと頷いた。 明菜は息を吸い込んで、ふいに朗読するような調子で言った。 『押付けられたものを大人しく受取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生き物のさだめだ』 雫はすぐに明菜の意図を悟った。 「中島敦ですね、山月記」 『彼は我が目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった』 「それも中島敦、名人伝」 『日本人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中で問答するラジオ、虚言を振り撒くテレビ、死者の声で話すスマホ、数知れぬ悪霊共が日本の地に充ち満ちている』 「えっ、待って、パロディですね? 中島敦の」 「出典は」 「言わないで。思い出しますから。読んだ覚えがある」 「も」 「待って、まだ考えさせて」 雫がぶんぶんと手を振るのを見て、明菜は白けたような顔をした。 「なに必死になってるの」 「えっ、だって正解したら本の話してくれるんですよね」 「そんなこと言ってない……」 「ええ……」 雫ががっくりうなだれた。 明菜は頭をかく。 「あー正直さ、あたしじゃなくていいと思うんだ。あんた優しいし、人懐っこいし、友達なんてほかにいくらでも作れるでしょ?」 「もしかして褒められてますか、私」 「褒めてもいる」 「ありがとう。でも私……」 雫が言いよどむ。 明菜は胸に痛みを覚えた。 この後に続くのはきっと謙遜の言葉だ。 だけど雫がどんな謙遜をしても、あたしはそれを悪くとるだろう。 犬の動画を見ることができる人間を妬んで憎む悪霊。 それが自分の正体だ。 悪霊は人間のそばにいちゃいけない。 すると小さなスマホを胸に抱いたまま雫が顔を上げた。 その時に見た雫の表情は、明菜にとって生涯忘れられないものになった。 彼女の目には光があった。 雫は言った。 「あなたの感想を聞きたい。あなたが本を、中島敦を読んでどう思ったのか。笑ったのか、怒ったのか。それは、あなたからしか聞けない言葉だもの」 それは明菜の目にも見えた。 友人の瞳の中で輝くものは。 テレビが見えなくても、ラジオが聞こえなくても、CGがわからなくても、ボカロが歌えなくたって、雫の目と声に宿ったものの存在は感じ取れた。 『文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか』 明菜が言うと、雫がパッと顔を明るくする。 「わかった! 文字禍です!」 「……図書館では静かにしてよね」 「もちろん」 道路に伸びる影が、嬉しそうに跳ねた。 夕暮れに見た光のことを、明菜はたまに思い出す。 きっとあれも、精霊の一種だったのだろう。 見るべきものを見ることができる目を、自分が持っていたこと。 それを支えにして明菜は生きた。精霊が充ち満ちる世界を。 -------- 出典:中島敦の『山月記』『名人伝』『文字禍』。いずれも青空文庫から引用した。
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コメント
自分にははっきりと見えていることが、他の人には見えていないかもしれない。
そうした世界の見方が異なる人々を結ぶ力が言葉にはある。
そんな力を持つものは精霊と呼ぶほかにない。
そういう意味で、文字の霊はあるのかもしれない、そんなことを思いました。
なかまくらさんと予想します。
精霊が見えない見えない聖女。
聖女は明菜さんの事だな。
さて、明菜さんは、機械がダメ。この機械が精霊って事かな。今どき、機械だらけなのに、それが見えないとなると生活にも、生きるのにも、困りそうですね。友達と遊ぶのにも困りそう。可哀想や!
クライマックス。
明菜は、機械という精霊は相変わらず見れない、聞けないが、雫の気持ちは分かった。これこそが観るべきものであり、明菜はそれを観ることができて、満足された。ささくれた感情も少しは安らいだのかな。めでたし!
ところで、中山敦、読んだことないですねー。面白そうだから、ちょっと読んでみたかなりました。
さて、作者予想は、断然、ヒヒヒさんな気がします。
文体やら、ネーミングやら、中山敦さんも、ヒヒヒさんが好きそう!
この予想は相当、自信あり☺️
ふあーーー。これは、力作ですね。最後の一文が、「生きた」と終わるのも、重みが伝わってきました。
先人が残したものをインターネットで見聞きするだけで、精霊なるものがいたとして、その存在からは、私たちは、光る板を見ているばかりの、おかしくなってしまった動物に見えるのかもしれないな、と思ったりしました。
作者予想ですが、これは難しい・・・・。欠けているものの美しさを描き出すのは、ヒヒヒさんの真骨頂だと思うのですが、文学的な造詣に茶屋さんを感じます。文字に特別な意味を持たせるのはなかまくらさんな感じもするし・・・。でも、ここはとりあえずヒヒヒさんにしておきます!
PN:はたらかないサイドン