東京オルタナティブ
西暦2055年、日本の各地に東京都が5つ。 大事なものには予備が要る。東京A、東京B、C、D、E、5つもあれば大丈夫。大地震だって怖くない。 大事なものには予備が要る。親にとっては子供が大事。受精卵をコピペして、5つもあれば大丈夫。炭疽菌テロも怖くない。 2055年、東京は5つあって、25歳の東雲アリサは、自分を5つ持っていた。 A、東雲アリサはオリジナル。大切な5人の中で、最も大事。割れないよう、壊さないよう、お家の中で大事に大事に守ってる。 B、東雲ベルはオルタナティブ。もしもアリサの心臓が、あるいは肺が、身体のどこかが壊れたとき、ベルが真っ先に部品を提供する。 C、東雲カリンもオルタナティブ。別に壊れても気にしない。外に出してリスクとリターンを取らせ、消耗するまで働かす。 D、東雲ドナもオルタナティブ。実験用。 E、東雲エリナは逃げてしまった。1週間前のことだった。 中央線Cのホームに立って、東雲カリンは汗をぬぐう。 頭の中は仕事でいっぱい。メールを打って、会議に出て、クレーム受けて、上司に怒られて。それは楽しいとは言えなくて、だけどカリンはC、アリサの2つ目の予備だから、アリサのために金を稼ぐ。 当然だ。それが自分の役だから。だけど時々考える。もしアリサが、ベルが、他の4人がいなくて、つまり、世界に私が自分一人しかいなかったら、それはどんな気分なんだろう。 「自分が死んだら、この世から「私」が絶滅してしまう」って、それはいったいどんな気分だろう。 わからない。 カリンは駅のホームに立って、夏の日差しを額に受けながら、電車を待つ。「私たち」の中で一番小さかった子を思い出す。 東雲エリナ、役目を捨てて逃げ出した子。同じ遺伝子、同じ顔、同じ身体を持ちながら、彼女が何を考えていたのか、全然わからなかった。 私であって、自分でない。 自分はいったい何なのか。そう問いかけると、いつも母親の声が聞こえてくる。 「お前はオルタナティブ。大事なアリサの大事な予備」 アリサは大事。だから予備がある。カリンに予備はない。だから。 電車がやってくる。これに乗って大切な商談に向かうのだ。お金を稼げ。自分のために、私のために、大事な大事なアリサのために。 カリンは電車に乗らなかった。鞄を捨てて、東京Cを飛び出した。 高田馬場Bの喫茶店で、東雲ベルは涙をこらえていた。 昨日、カリンが逃げ出した。仕事嫌さに、何も残さず逃げ出した。 「ずるいよカリン。あんたがいなくなったら、誰が私たちを養うの?」 ベルはアリサの世話役で、アリサは国のための「知的労働」をしている。ドナは一種の機械で、エリナは行方不明。要するに、誰もカリンのようにはお金を稼げない。 ベルは自分が働くことを想像してみる。慣れないことをして、怒られて、お腹をきりきり、胸をずきずき痛める自分を。それはダメだ。 父親がいつも言っていた。 「健康でいることがお前の役目だ。お前の身体は、いつかアリサに返すもの」 治安が良かったのは昔のこと。今ではそこかしこでテロが起きていて、いつ臓器移植が必要になってもおかしくない。 アリサがダメージを受けた時、スペアとなるのが、ベルの役目だ。 この肺は、心臓は、目は、耳は、私たちのものだけど、自分のものではない。 でもそうだとしたら、自分とはなんなんだろう? この自分、東雲ベルは何なんだ。 ベルはカリンの気持ちを理解した。誰だって、自分を大事にしてほしい。機械でもない限り、それは絶対にそうだ。自分はロボットじゃない。たとえスペアでしかないとしても、機械では、絶対ない。 カリンとエリナを追って、姿を消そうか。 ベルはアリサを思いだす。大事な大事な宝物。アリサは英才教育を受けて「知的労働」に従事している。だけどずっとお世話されてきたから、実は、ココアの入れ方さえ知らない。 ベルまでいなくなったら、アリサは途方に暮れるだろう。 「カリンの馬鹿」そう言って、ベルはカリンを憎もうとした。だけど憎めない。嫌えない。それはきっと、彼女が私たちの一人だから。私であって自分でない。そんな存在は、どれだけ憎んだって憎み切れない。 私って本当に厄介だ。そうぼやいて、ベルは家に帰った。 東雲ドナは箒を握って、玄関前を掃く。機械でもできる単純なことが、ドナの仕事だ。 彼女はオルタナティブで、実験用。 例えばアリサに、ワクチンが効くかテストしたい。だけど、そのテストをすると体調を崩すことがある。大事な大事なアリサに、そんなテストはさせられない。そこでドナの出番。 同じ遺伝子、同じ顔、同じ身体。都合がいい。 どうしてアリサがAになり、ドナがDになったのか、ドナは知らない。両親が「お前はDだから」と言った。ドナにはそれで十分だった。両親がありふれた炭疽菌テロであっけなく死んでからも、ドナは言いつけを守り続けている。 両親には予備がなかった。だからすぐ死んだ。 アリサには予備がある。ベル、カリン、エリナ、そしてドナがいる。腐る前に処置すれば、アリサは4回までは生き返る。 それでいいと、ドナは思う。 あるとき、エリナにこんなことを聞かれたことがある。 「オリジナルになってみたくない?」 「きっと面倒だろうな」と思った。 「大事にされてみたくない?」とも聞かれた。 「別に」と答えた。「別に」と答えて、そのままにしていた。 ドナは箒を動かす手を止めて、空を見上げた。 大事に大事にされた女の子、東雲アリサ・オリジナルは死んでいた。道の途中に倒れて、誰にも知られないまま、ゆっくりゆっくり腐ってく。 エリナから借りた赤いスカートが、花びらのように広がっていた。 東雲エリナは窓の縁に腰かけて、夕方の風に髪をなびかせていた。 穏やかな、とても穏やかな気持ちだ。 見下ろすと、庭でドナが花に水をやっていて、街へと続く道の向こうからベルを乗せた車が戻ってきた。 手を振ると、ベルも手を振りかえす。エリナのことをアリサと間違えているのだ。 可愛い私たち――姉妹とはちょっと違う。姉妹だったら、みんな別々の人間で、妹が姉の予備であることはありえない。だけど、私たちはみんなアリサの予備だ。 エリナ。戸籍上の名前は、アリサ・E――役割は、オリジナルが開花させられなかった役割を開花させること。 それがE。 もしAが政治の才能を発揮したら、Eは例えば音楽の才能を開花させる。Aが経営の能力を見せたら、Eはまた別の分野で活躍する。それが理想のAとEだ。Aが徹底的な英才教育を受けて「国を創る人材」になり、B、C、Dが支援して、EはAと異なる形で自己実現を果たす。 それが理想のA、B、C、D、E。 「くっだらない」エリナは叫びたくなる。 どうしてどうして、自分の意見も言えないうちに、未来を定められなくちゃならないんだろう。 亡き両親は言った。 「お前はオルタナティブだから、アリサと違う道を行きなさい。頑張りなさい。それがアリサの名誉になる」 どうして私はAになれないの? そのことが、ずっとずっとわからなかった。 だから1週間前、東雲アリサに言ったのだ。 「オリジナルになってみたい」 アリサ、ずっと宝物扱いされていた娘は「自分もEになってみたい」と答えた。 嬉しかった。やっぱり私たちは同じ人間だった。もしオリジナルとかオルタナティブとか言う役目さえなければ、きっと仲良くなれたのに。 アリサとエリナは、一時的に立場を交換した。エリナは家に留まり、アリサは旅に出た。オリジナルであることを忘れて、広い世界を端から端まで見て回りたい――そう言って笑ったアリサの顔を、エリナは鮮明に覚えている。 オリジナルになって、宝物として扱われる。それはとても素敵なことだった。だけどいつまでもオリジナル面することは気が咎める。だからもう少しだけ遊んだら、正体を明かすつもりだった。 気になるのは、アリサから全然連絡がないことだ。毎日連絡すると言っていたくせに、ちっとも音沙汰がない。 死んだのかも、と考えてから、エリナはその想像をかき消す。きっと浮かれて連絡を忘れているのだろう。あるいはわざと連絡しない。 ……それとも、本当に死んでいるのだろうか。25年間、ずっと大事に大事にされてきた子が、人知れず死んでいる。その想像は――自分でも意外なことに――面白かった。でもたまには、こう言う不埒な想像だって許してほしい。自分はずっと、代替品だったのだから。 アリサが帰ってきたら、なんて言ってからかおう。 エリナ、大事にされなかった子はちょっとほくそえんで、遠くの街並みをみつめた。 日がだんだんに暮れつつあった。空が暗くなってゆく。
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