総務課の雪女
#0 刺さるくらいに冷たい言葉が、なのに暖かかった。 #1 夏の日の、うんざりするほど蒸し暑い夜のこと。 ワンルームマンションのリビングで、氷室カリンは恐縮しながら正座をしていた。部屋の主は東雲春陽(はるひ)と言う女で、3年前に入社した会社の同期だが、友達では決してない。そんな女に招かれて、カリンは今、所在なさげに身をすくめている。 キッチンから春陽が戻って来た。頭の右側だけに結んだ髪をトレードマークとしているこの女は、いつでもどこでも笑っている。 「ほい、ゆきんこ。しっかり冷やしてね」 そう言って、ビールの缶を一山カリンに押し付けようとした。 「いやです」 カリンが受取ろうとしなったので押し合いへし合いすることになったが、最終的にはカリンが負けた。たくさんの缶ビールを胸に抱えながら、カリンはため息をついた。 「結局こうなるんですね」 「当然じゃない。あなた雪女なんだから。たまにはこういうことしなきゃ」 カリンがぐずぐずとすすり泣き始めた。 「やっぱり帰ります。迷惑です」 「だーめ。観念しろ。ゆきんこに冷やしてもらうために買ったんだからね」 春陽がそう言ってカリンの肩を押さえ、テーブルの前に座らせた。足の短いそのテーブルは、独り暮らしの女性が使うにしては大きすぎる。それもそのはず。焼き肉パーティをするためだけに春陽が選んだ逸品だ。 独り暮らし用の8畳しかないリビングには真夏の太陽が残した熱気がまだ残っていて、座っているだけでも汗がにじむ。にもかかわらず、カリンが抱えたビールの缶の表面に、うっすらと霜が張った。 #2 カセットコンロに肉一式、少々の野菜とサンチュ。「焼き肉に欠かせないものすべて」と呼んでいるものを並べ終えた春陽はカセットコンロの火をつけながら、カリンに言った。 「それじゃあ聞かせてもらおうか」 「何をですか……」 「わかってるくせに」 「なんでそんなの聞きたがるんですか」 カリンがそう言った時、春陽は網をセットしようとしていたが、わざわざその手を止め、にやりと笑ってこう言った。 「決まってるじゃない。人の不幸で飯が美味い! からだよ」 「悪趣味」 「ふははは、何とでもいえ。で? 今日はどうしたのさ」 カリンが鼻をすする。観念したようで、ぽつりぽつりと話し始めた。 「うちの、総務課長が休んだって話は聞いてますよね」 「急に休んだってね」 「凍傷で休んだって噂は?」 「知らないわけないじゃん」 にこにこしながら春陽は言った。 カリンの白い肌に赤みがさした。それに呼応するかのように、ビール缶についた霜がさらに広がった。真夏の夜の蒸し暑い部屋の中で、カリンの周囲の空気だけがゆっくりと、しかし確実に冷えていく。 「だったら分かりますよね。もう、会社中その話でもちきりですよ。あの総務課長が? インフルエンザのときすら会社に来る男が? 休み……? 凍傷? ああ、じゃあ、あの子だろうなア、ほら総務課にいるよなア?」 「カリンがやったんだ!」 「違います!」 春陽が嬉しそうにカリンを指さすと、カリンがわっ、と泣き出した。 網が温まって来た。春陽はタンを2枚、網に乗せる。 #3 「みんな私には聞こえないようにしてるつもりでしょうけど、わかるんですよぅ、バカにするんじゃないよ! パソコンから顔を上げると誰かが顔をそらすし、廊下を曲がると『何も話してませんよ』って顔するし!」 「あいつら下手だねえ。私だったら悟らせないのに。で? 動機は?」 「私がやったんじゃない! 熱中症で倒れたんですよ課長は!」 「なんだつまんない。あいつヤな奴だからさ、一回凍らせてやったらいいんだよ」 ぐすぐす、とティッシュを取って鼻をかむ。すかさず春陽がゴミ箱を差し出してやった。 「すびばせん……で、さすがに耐えられなくなって、タイムアウトしようとしたんです」 春陽は小首をかしげる。「タイム……アウト? ってなんだっけ」そう聞きながら網の上のタンを取り、皿に乗せ、レモンをかける。それを箸でつまんでカリンに差し出す。 「ほれ」 「自分で食べます!」 「ほい」 箸を回してカリンに渡す。冷房体質者が不承不承と言う顔で肉を咀嚼する様子を、焼き肉をこよなく愛する女がにっこりしながら見つめている。 「タイムアウトって?」 「何回説明させるんですか! 雪女――雪男もですけど、いわゆる冷房体質者にはそういう義務があるんです。興奮して周りのものを冷やし過ぎないように! ストレス源から離れて落ち着かなきゃならないんです!」 「ああー、そんなのあったねえ。たばこ休憩みたいなものか。いいなー、私もカフェオレ休憩したーい」 「ぜんっぜん違う!」 カリンは膝立ちになってぶんぶんと右手を振る。 「ほら、落とすなよ缶ビール。抱えとけよー、冷やしとけよー」 春陽に指を指され、カリンはしぶしぶビールを抱え直す。 「いいぞいいぞもっと怒れ。怒れば怒るほどビールが冷えて美味しくなるからね。で?」 「そしたら主任が……ほどほどにしてねって。確かに私、中抜け多いですけど! 好きでやってるんじゃない! カフェオレ休憩でもたばこ休憩でもない!」 「そうなんだ、知らなかったな」 「勉強しろ!」 「やだー」春陽が網の上にハラミを並べ、サンチュとたれを用意する。「で? それだけじゃないでしょー?」 「まだやるんですかこれ」 「肉待ってる間暇だからね」 「ふざけるんじゃない!」カリンが吠えた。すでに腕に抱えた缶ビールは霜だらけになっている。「もうどうなっても知らないからな! 損害賠償なんてしないからな! 私は発散したいなんて言ってない! 頼んでない! あんたが勝手にさせたんだ、あんたが!」 カリンが春陽に指を突きつけるが、春陽は肉の方を見てる。「そろそろだ」と言ってハラミを裏返した。 「聞きたきゃ教えてやる。今日一番最悪だったのは、営業事務の奴らで、あいつら、あたしが私がいつ暴発してもおかしくないとか言い出して!」 「焼けた」 「聞けよ!」 春陽はハラミを網の上からさっと取り上げ、カリンの皿に入れてやるが、カリンは見向きもしない。 「あーはいはい。暴発ね、雪女が暴発するのはよく知ってる。今ちょうど隣で爆発してるのいるし」 「こんなんじゃない! ほんとに暴発したらこれじゃすまない!」 「なんかイングランドで交際相手を氷漬けにした雪女いなかったっけ? こわー」 「あれ正当防衛だから! 先に刃物出したの相手の方だから! なのにゴシップ誌が雪女の暴発ってことにしてえええ……」 「カリンちゃんにはそんな力ないもんね」 「ある!」 「へええ、じゃあやって見せてよ」 春陽が言うとカリンの表情が剣呑なものになった。雪女の身体から冷気が噴出し、春陽の肌に鳥肌が立った。 「やっべー。雪女ってすっげー」 #4 「よく聞けよしののめはるひぃ……お前ら人間なんかなあ、やろうと思えばなあ、いくらだって氷漬けにできるんだ。それが辛うじて防がれてるのはなあ、ほれ」 カリンが顎でリビングの端を示す。 そこには棚があり、その上の春陽の『何があってもなくしちゃいけないものを置く場所』になっていて、そこには今、カリンがいつも肌身離さずつけている銀の指輪が、ハンカチの上に丁寧に安置されていた。 「あの指輪があるからだぞ。私が暴発しかけたときはあれが通報するからお前たちは無事でいられるんだ。普通の人はな、普通の人間はな、指輪を外した状態の雪女と向き合おうとはしない……」 カリンの声は涙声になっている。 「指輪を、安全装置を持っている状態の雪女の隣ですら避ける。オフィスで私の隣に座ろうとする人はいない。焼き肉を食わせる馬鹿なんてお前だけだ」 カリンはうなだれてぐすぐすと泣き始める。 春陽は黙って玉ねぎを網の上に置いた。その横顔をカリンは見ていない。無表情で野菜を焼く同期の顔を。真夏日の夜に部屋の中でカセットコンロをつけているにもかかわらず、室温は18度を下回っている。 「会社を出た後に思ったんだ」 さっきとは打って変わった力のない声で、カリンが言った。 「もういいやって。辞めちゃおうって。続ける必要もない。人間であり続ける必要なんてこれっぽっちもないんだって。お母さんには悪いけれど、お父さんにだって申し訳ないけれど。でも、もういいんだって。簡単なんだ。指輪なんて放り捨てて、今日起こった嫌なこと全部思い出して、今まで怒った悲しいこと全部思い出せば、会社の人全員凍らせるのくらいわけない。だからそうしようって思ったんだ。人類に勝てるわけないけれど、結局討伐されるだろうけれど、それまで思うさま暴れまわるのも気持ちよさそうだ、良いな、って……思ってたのに」 カリンが顔を上げて、鋭い目で春陽を睨んだ。春陽はにっこりと笑い 「玉ねぎ食べるよね?」 カリンがまたぐずり始めた。 「なんか髪を結んだ、肉のことしか考えてなさそうなにこにこした女がやってきて」 「誰だろなあ」 「家に来い、ビール冷やせとか言い出して」 「美人なんだろなあ」 「拒否する私を、同期のよしみだ付き合えとか言って引っ張ってって、家に押し込んで、肉食べさせて」 「良い人だ」 「おい! 時代が時代なら、わだじは村一つだって滅ぼせる大妖怪だぞ! それを、それを酒飲み友達扱いして!」 「度量が大きい」 「おまえのことだよしののめはるひぃ、わかってるくせに自画自賛しやがって! おまえが、おまえさえいなければ、お前が誘わなければ、私は今日、やりたいこと全部やって、やっちゃいけないこと全部やって、新聞に載って、お母さん泣かせて、お父さん怒らせて……」 カリンはとうとうおーいおいと声を上げて泣き始めた。 すでに室温は15度を下回っている。春陽は顔に出さないまま驚いた。溜まっているだろうとは思っていたが、ここまでとは。 春陽は知っている。 冷房体質者の冷気と言うのは“蓄積”するものだと言うことを。ストレス同様、定期的に発散してやる必要があることを。この生真面目な雪女が、その機会を見つけられないでいることを。 春陽は無邪気な顔をして言った。 「ねえ、ビール冷えた? サボってないよね?」 「冷やしてるよ! やりすぎたくらいだよ!」 「おう、よくやった」 春陽はカリンから缶を一つ奪うと、それを開け、自分とカリンのグラスに注いだ。「かんぱーい」と言いながら一人で先に飲む。「美味い。最高だね。ねえ? あなたが泣けば泣くほど美味くなるんだからね。もっと泣いてくれていいんだよ?」 カリンは手の甲で涙を乱暴に拭う。 「駄目だよ。ご迷惑かけちゃう。お前は知らないだろうけどなはるひ、あんまり騒ぐと近所から苦情が来て、お前が、お前が引っ越さなきゃならなくなるんだぞ。私はもう4回引っ越した。部屋を氷漬けにするなよって言われて……」 「いいね、ちょうどここにも飽きてきた」 「ばか!」 カリンは背中を丸めて泣く。火から野菜をおろした春陽は、震える女の背中に手を添えて、ゆっくりとさすってやった。見ると、部屋のいたるところに霜が降りている。本当ならカラオケか何かで喚かせてやりたいのだけれども、と春陽は思う。が、部屋を氷漬けにさせてくれる店は多くない。いや、皆無だ。 一度カリンが氷漬けにした部屋は、なかなか暖まらない。でもまあいいや、と春陽は思った。地球温暖化真っ盛り。命の危険を感じるような暑い日が続いている。そんな時代だ。たまには部屋を氷漬けにするのもいい。 「ごめんね……ごめんなさい」 謝罪を繰り返すカリンに向けて、春陽は言った。 「この程度で満腹になる女だと思うなよ」 そう言って春陽がカルビを出すと、雪女の親友がようやく微笑んだ。 終わり
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コメント
なかまくらさん、コメントありがとうございます!
正直、意味が伝わるのだろうかと思っていたので、ほっこりして頂けて良かったです。
そうだ辛いものがあれば良かった。そうすれば火を噴く雪女が(どこへ行く
実は「特異体質者支援センター」という設定があったのですが
書いてるうちに溶けてなくなりました。
また会社シリーズ書けたらいいな、と思います。
まさかのシリーズ展開! これは楽しい遊びですね!
これ、短編連作で一冊の本にしたらヒットするのではないかという楽しさです!
あまりにも寒そうなのですが、二人の関係性はすごく温かくてほっこりしました。
こういう同僚がいたら、なんて素敵なんでしょう! あ、でもやっぱり寒いので、できればちょっと辛めの石焼ビビンバを所望します!
それと、政府に目を付けられないように、というか、政府が彼女らに手を出せない理由となる恐ろしい力を持った、頭取がきっと、いるんじゃないかと勝手に想像しました!
けにおさん、コメントありがとうございます。
メデューサが好評だったのがうれしくってまた書いちゃいました。
言われてみればやってることが小さい(笑い)。
ただ、大きなことやろうとすると新聞に載っちゃいますからね。
総務課長とか凍らせたら。
実はこのお話、17年に書いたお話のリメイクなんです。
そのときはカリンをすごく親切な友人が飲みに誘ってくれる
ってお話だったんですけれども、なんか物足りなくって
あれこれしてたらこうなりました(笑)。
総務課のドラキュラ! その発想はなかった。
それも面白そうですねえ。
総務課の妖怪シリーズの第2弾ですね!
またこう言うのが、創作というか、物語というか、小説の醍醐味ってものですね!
職場の同僚に妖怪がいると思うと、怖いのと、ちょっとだけ好奇心が湧く。
そんなありえない、ことがあったと仮定した場合に起こり得る、色々なさまざまな出来事。
想像するだけで、あとの展開に、ワクワクしますね。
今回は雪女。
で、いくつかの選択肢があるはずだが、よりによって、部屋で肉を焼きながら、缶ビールを冷やしただけ(笑)
えらく、ちっさい展開にしましたね。
その小ささが可愛らしく、また春陽さんの雪女のカリンさんに対する気遣いが優しさが、沁みますね。
さりげなく、さそって、カリンさんにたまったストレスを発散させてあげようと試みたのですね。
春陽さん良い人だ。
こんな同僚が欲しいものである。
また、私ならこのシリーズで次に何を創るかな?
創造力、弱っとるからなあー
うーん
総務課のドラキュラ!
時々噛まれる。血を吸われる。夜にしか出勤しない。天井にぶら下がっていることが多い。口臭(特ににんにく)にうるさい。
単なる迷惑キャラやん!要らんはこんな同僚!