日常 | 文字数: 2664 | コメント: 0

おだやかな昼下がり

「あのひとたちって何のために生きてるんだろうね。」 窓の外を眺めながら、彼女がつぶやいた。 「あのひとたちって誰のこと?」 僕はコーヒーをすすりながら答える。 「べつに特定の誰かのことをいってるわけじゃないわ。たとえば、ほら、いまそこを通り過ぎて行った冴えないサラリーマンでも、あそこで暑そうにしてる交通整理の人でも、要するにだれだっていいのよ。生きててつまらなそうなひとっているじゃない?そういう人って生きている意味があるのかな、って思って。」 「君、そんなことは言うもんじゃないぜ。ひとの人生のことなんてそのひとになってみないとわからないだろ。僕たちにはとやかく口出しする権利なんてないのさ。」 僕はコーヒーカップをそっとおいて彼女をたしなめる。   水曜日の昼下がり。 強い日差しとうだるような暑さから避難するかのように入った喫茶店で僕たち二人は、しばし涼みながら談笑していた。 店内にほかの客は見当たらず、コーヒーのいい香りとともにゆったりと時間が流れていた。 「でもあなただって小さいころに、一度くらい『なんでアリは文句も言わずに働き続けて死んでいくんだろう。なんで植物は動くこともできずただ枯れていくんだろう。』って思ったことあるでしょう?それと同じよ。」 確かに彼女の言うとおり、僕自身そんなことを思ったことはある。だが、 「それとこれとは別だろう。人間と動植物の生の価値についていっしょくたにして論ずるなんて、それこそナンセンスだぜ。」と僕は言った。 すると、彼女は怒ったような顔になり、カフェオレの白と黒の織りなす模様をみつめながら沈黙した。 僕は少し大人げなかったなと先刻の自分を反省し、彼女にたわいもない話題をふろうと思って口を開こうとした。その瞬間、 「人間なんて所詮少し頭のいいだけのサルでしょ。大差ないわよ。」 と彼女が語気を強めて言った。 「おいおい、どうしたんだい、そんなにむきになって。怒ったのなら謝るよ。」 僕はあわてて彼女をなだめようとした。  だが、彼女はしばらくこわばった顔をしていたが、そののちにふっと脱力してさみしそうな顔になった。 「わたし、ときどき考えちゃうの。もし、自分がこの世にいようがいまいが世界に何の変わりもないのなら、私はなんで生きてるんだろう、って。それで自分の存在がどんどん希薄になっていって、最後には消えていってしまうような気がするの。こわいの。」 そういう彼女の声はとても小さく消え入りそうだった。  僕はしばらく考えてこう切り出すことにした。 「種の保存のため、というふうに考えるのはどうかな。どんな動物も植物も、生物はみな自らのDNAを次の世代に引き継ぐために生きている。そう考えたら、どんなひとにも生きていく意味があると思えるんじゃないかな?」 僕はなるべくゆっくりと優しく彼女に語りかけた。 「それでも、ただ自分の子孫にバトンをつなぐためだけに生きるなんてむなしくない?そんなの生きる意味とは言えないわ。だって自分が死んでしまった後の世界には、自分はもういないのよ。もう関係ない世界なのよ。」 そういって彼女は目頭に涙をためた。  僕は途方に暮れてしまって、とりあえずコーヒーを一口飲んだ。 いつの間にか漂っていた湯気も消えてしまっており、インクを煮詰めたような苦い味がした。      * 「わたし考えてたんだけどね。」 僕が困り果てていると彼女が口を開いた。 「わたしたちって生きてるんじゃなくて、生かされているんじゃないかしら。」 「生かされているって?」僕は驚いて尋ねる。 「うん、なんかうまく言葉では言い表せないけど、生き物とかって誰にも教わっていないのに生きるすべを知ってるじゃない?それって、わたしたちの考えなんて到底及ばない存在の意志によるものなのかもって思ったの。」彼女はゆっくりと言った。 「それって神様のことかい?」  正直なところ僕は神の存在など信じてはいなかったし、自分の人生が誰かに決められたものだなんて、まっぴらごめんだと思っていた。 だが、彼女の言っているのははそういったたぐいのものではなかった。 「ううん、違うの。星の意志というか、自然の意志というか、そんなものよ。わたしたちっていつかは死ぬじゃない。そしたらわたしたちのからだは土に還って、草木の養分になるわ。いや、今だってそうよ。わたしのからだを構成している分子だって絶え間なく新しく入れ替わっている。わたしたちは太古から続いてる原子の大循環の中にいるのよ。そうして、かつてわたしだったものたちがまた誰か、何かに変わってこの地球に存在し続けるの。」  なるほど。地球上に存在する原子の数はほとんど変わらない、という話を聞いたことがあるがそのことを考えると、彼女の考えもあながち間違ってるわけではないのかもしれない。 「つまり、さっきまで僕だったものが、次の瞬間には君になっているということもありうるということかい?」僕は少し茶化していった。 だが、彼女は「大いにありうるわ。」と大真面目な顔で答える。 僕は心に鈍い痛みを感じながら彼女に微笑んだ。  僕としては彼女が元気になってくれたので、その考えがどうこうということはそれ以上言及しなかった。そのあとはたわいもない話で午後の時間をつぶした。      *  お互いのカップの中身もなくなった頃、彼女が「そろそろ行きましょうか。」と立ち上がった。 「いろいろと相談に乗ってくれてありがとう。おかげで少し胸のつっかえがとれたわ。そのお礼と言ってはなんだけど、ここはわたしが払うわ。」彼女が言った。 「それではお言葉に甘えて。」 僕はそういって支払いを辞した。僕はこういったことは断らないタイプの人間なのだ。 「それじゃあ、今から僕の家でも来るかい?」 僕はさりげなくそう切り出した。 「あら、どうして?」 「種の保存のため、かな。」僕は言った。 「お断りします。」彼女はきっぱりとした口調で切り捨てて、先に店を出て行ってしまった。  チェッ。僕は軽く舌打ちをして、彼女の後を追いかけた。外はまだ燃えるように暑く、もわっとした熱気に包まれていた。 僕の後ろで喫茶店のドアがちりりんと音を立てて閉まった。                                          完

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