日常 | 文字数: 1432 | コメント: 0

腹の幼子

【掌編連作三本】  水が欲しくて目が覚めた。  ガキの自分が立っていた。  まだひとりなの。  水もひとりでくまなきゃいけないの。  誰もぼくにやさしくしてくれないの。  まだ生きてるの。  痛烈に喉がひりついた。  ベッドから降りる。洗い物を残したシンクに向かって水を飲む。 「うるせえよ、ガキが」  ようやく一言言い返す。  ああそうだ、まだひとりだ。誰も傍にはいてくれない。  水くらいひとりでくむもんだ、お前でさえ出来るだろう。  俺にやさしいのは俺ひとりで十分なんじゃねえのか。  ──まだ生きてるぜ。  ねばつく夜にはガキの自分が脳味噌を食い潰していく。 「生きてるからな」  吐き捨てて、再び布団に潜る。  生きることがあのころへの、あのころの自分へのただひとつの復讐だと、思っていた。  思いながら、眠った。  ねばつく夜には、こうして正気を忘れる。  喉が渇いて、ぼくは目を開いた。  夜はまだ深い。  喉は渇いていたけれど、ぼくは布団から起き上がろうとしなかった。  夜歩くと、蛇が出るから。  それは本の題名と口笛の混ざった思い込みだと知っていたけれど、ぼくは暗い中で何かをしようとは思わない。  瞼の裏を、うすずみのような、こどもの影が過る。  大丈夫だよ。  ぼくはもうおとなだよ。  きみのように、夜歩いたりはしないよ。  蛇を誘い出すような真似はしないんだよ。  きみのように、ばかじゃあないんだ。  だからもう、おやすみ。  見張っていなくたって、大丈夫だから。  うすずみに十分に言い聞かせてから、布団から指だけ出して、照明のリモコンを手に取った。  しらじらとした明かりがひろがるぼくの部屋に、あんなものがいるはずなんてない。  だから大丈夫。大丈夫。大丈夫なんだよ。  今度は自分を説き伏せて、それからようやく水を飲みにベッドを降りた。  うすずみのこどものかかとには、蛇の牙痕がついている。 「……干からびる」  夜気はじったりと重く布団にのしかかる。  これだけ湿っているのにどうして喉が渇くのだろう。  独り言を言っても無駄なのは分かっている。 「あぁ!」  小声で叫んで飛び起きた。  大学生になってはじめたひとり暮らしの部屋には、エアコンというものがなかったのだ。  おれは再びきちんとねむるために、というよりも渇望のままに、冷蔵庫のドアを開いて清涼飲料水を一気飲みした。  はあ、とおおきく息をつく。  アルバイトをして買えばいいとは思うのだが、生憎先日面接に落ちてしまったばかりだ。  親に頼るなどふざけるなという感じである。  折角顔を合わせなくてよくなったのに。  冷蔵庫のドアを閉じると、そこにあったのは暗い静寂だった。  その静寂を、おれははじめてこの部屋で見た。  こころをノックされた気がして、ふと笑った。  心配すんなって。  きつかったら、逃げてもいいんだぜ。  おれはちゃあんとおとなになれた。  お前はちゃあんとおとなになれた。  怒声も罵声もここまでは届かない。  だから安心しろよ、小さい俺。  ベッドに戻ろうとして、求人誌を踏んで滑ってすっ転げて痣を作ったけれど、あとで同期に笑ってもらおうと、暗闇でくつくつ笑いをこらえただけだった。

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