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腹の幼子


【掌編連作三本】

 水が欲しくて目が覚めた。
 ガキの自分が立っていた。
 まだひとりなの。
 水もひとりでくまなきゃいけないの。
 誰もぼくにやさしくしてくれないの。
 まだ生きてるの。
 痛烈に喉がひりついた。
 ベッドから降りる。洗い物を残したシンクに向かって水を飲む。
「うるせえよ、ガキが」
 ようやく一言言い返す。
 ああそうだ、まだひとりだ。誰も傍にはいてくれない。
 水くらいひとりでくむもんだ、お前でさえ出来るだろう。
 俺にやさしいのは俺ひとりで十分なんじゃねえのか。
 ──まだ生きてるぜ。
 ねばつく夜にはガキの自分が脳味噌を食い潰していく。
「生きてるからな」
 吐き捨てて、再び布団に潜る。
 生きることがあのころへの、あのころの自分へのただひとつの復讐だと、思っていた。
 思いながら、眠った。
 ねばつく夜には、こうして正気を忘れる。



 喉が渇いて、ぼくは目を開いた。
 夜はまだ深い。
 喉は渇いていたけれど、ぼくは布団から起き上がろうとしなかった。
 夜歩くと、蛇が出るから。
 それは本の題名と口笛の混ざった思い込みだと知っていたけれど、ぼくは暗い中で何かをしようとは思わない。
 瞼の裏を、うすずみのような、こどもの影が過る。
 大丈夫だよ。
 ぼくはもうおとなだよ。
 きみのように、夜歩いたりはしないよ。
 蛇を誘い出すような真似はしないんだよ。
 きみのように、ばかじゃあないんだ。
 だからもう、おやすみ。
 見張っていなくたって、大丈夫だから。
 うすずみに十分に言い聞かせてから、布団から指だけ出して、照明のリモコンを手に取った。
 しらじらとした明かりがひろがるぼくの部屋に、あんなものがいるはずなんてない。
 だから大丈夫。大丈夫。大丈夫なんだよ。
 今度は自分を説き伏せて、それからようやく水を飲みにベッドを降りた。
 うすずみのこどものかかとには、蛇の牙痕がついている。



「……干からびる」
 夜気はじったりと重く布団にのしかかる。
 これだけ湿っているのにどうして喉が渇くのだろう。
 独り言を言っても無駄なのは分かっている。
「あぁ!」
 小声で叫んで飛び起きた。
 大学生になってはじめたひとり暮らしの部屋には、エアコンというものがなかったのだ。
 おれは再びきちんとねむるために、というよりも渇望のままに、冷蔵庫のドアを開いて清涼飲料水を一気飲みした。
 はあ、とおおきく息をつく。
 アルバイトをして買えばいいとは思うのだが、生憎先日面接に落ちてしまったばかりだ。
 親に頼るなどふざけるなという感じである。
 折角顔を合わせなくてよくなったのに。
 冷蔵庫のドアを閉じると、そこにあったのは暗い静寂だった。
 その静寂を、おれははじめてこの部屋で見た。
 こころをノックされた気がして、ふと笑った。
 心配すんなって。
 きつかったら、逃げてもいいんだぜ。
 おれはちゃあんとおとなになれた。
 お前はちゃあんとおとなになれた。
 怒声も罵声もここまでは届かない。
 だから安心しろよ、小さい俺。
 ベッドに戻ろうとして、求人誌を踏んで滑ってすっ転げて痣を作ったけれど、あとで同期に笑ってもらおうと、暗闇でくつくつ笑いをこらえただけだった。

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