クワガタのトッピングあります
『クワガタのトッピングあります』
その張り紙を見たN氏は、目を丸くした。彼が今座っているこの場所は、とある田舎のトンカツ屋。出張先で定食屋を探していたところ、たまたま前を通りかかったのがこの店であった。
店に客はおらず、店の人間も老爺一人だけのようだ。多少古びた印象は受けるも、至って普通の店構えに違いはない。だが、席に座ってさぁ注文しようかと顔を上げた時、それに気づいた。色褪せたメニュー表の隣に貼られてある赤文字で書かれた張り紙。
それを見てN氏は不愉快な気分になった。いくら冗談とは言え、食事を提供する店でやって良い事と悪い事がある。そのような判断もできぬ店で、食事をするなど以ての外だ。腹を立てたN氏は、カウンター越しに老爺へ声を荒げた。
「店主、なんだこのふざけた張り紙は」
「お客さん。その張り紙をご覧になったのですな」
老爺が顔を上げた。どんな風変わりな奴かと思ったが、よくよく見れば以外にそうでもない。髪はきちんと整えており、清潔感のある白いエプロンにも好印象を抱いた。とはいえ、悪趣味な張り紙を許すわけにはいかない。
「クワガタなんか食えるはずがないだろう。気分を害したので、他の店をあたらせてもらう」
「まぁ、待ってください。決してふざけているわけではありません」
「どう言う事だ」
「貴方はこの村のお方ではないようだ。折角のご縁、私の話を聞いては下さいませんか。他をあたるかどうか決めるのはそれからでも遅くないでしょう」
N氏の咎めに対して狼狽する事なく淡々と述べる老爺。そのあまりに穏やかな口調に、N氏は少しばかり落ち着きを取り戻した。
「いいだろう。話してみろ」
「はい。昆虫という生き物は、かつて日本人も当たり前のように食していたと言う事はご存知ですかな?」
「それくらいは知っている。馬鹿にするな」
「これは失礼しました。昆虫と言う生き物は、人間の栄養源として優れています。他国では今でも重要な食料として扱われているのは、ご存知の通りと思います。まぁ我が国では主流となっておりませんがな。しかし温暖化が加速する今、食料源を確保する事が困難になりつつあります。これは深刻な問題であります。穀物類や魚類は有害物質で侵され、食料としての意味を成さない時代が来るでしょう。そんな時に、一筋の光が見えたわけです。貴方ももうおわかりですな。それが、昆虫類なのです」
「そうは言っても、随分先の話だろう」
「どうですかな」
それから、老爺は地球に迫り来る危機を、事細かに話し始めた。初めは老爺の戯言だと聞き流していたN氏も、次第に耳を傾け、遂にはうんうんと深く頷いた。
「なるほど。そう言う事か。いや、怒鳴ってしまい悪かった」
「いえ、構いません。こんな風にお客さんに話を聞いて貰えるだけでも有難い事ですから」
「うむ。確かに一見これを見たら馬鹿にされていると勘違いしてしまうだろうな。けれど、そうではないとわかった。店主、トンカツ定食大盛り。それから、クワガタのトッピングを頼む」
「あいよ」
数刻後、店へ入って来たのは、白いエプロンを身につけた中年の男。壁の張り紙を見て、難しい顔つきになった。
「親父の奴、俺が買い出しへ行っている間にまた勝手に店を開けたんだな。しかも毎回こんな馬鹿みたいな張り紙を貼って何がしたいんだ。腕は一流でも、ボケちまったらどうしようもないな。まぁこれを見たところで、クワガタのトッピングなんて注文する奴はいないだろう。ん、何か落ちているぞ。なんだこの黒い虫の足はーー」
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