日常 | 文字数: 2787 | コメント: 0

『反』日常

私の掌で形作った器の中身にあるのは、きっと名も知らない、死ぬべきでなかった大切な人達の、命潰えた残り香である血液。 幾度も、この「アゾット」で邪を祓った。 産まれた物を認め、真にこの世の物へと昇華する、「始まりと終わり」を与える短剣。 本来我主に捧げられ、祝福を受けた後に数年祀り厄を避けるとされる貴金属を装飾し、刃へと鍛える。 それだけでは、人を殺すことなど到底叶わない柔な芝居の小道具程度にしか使えないのだが、私の「異常な力」を注ぐ事で災害を斬りはらう誠の「アゾット」へと生まれ変わる、らしい。 内側の闇を引き出し、祓い、輪廻転生の金科玉条で縛る、唯一の手段...そう聞いていた。 事実、確かにそれを振るうことで私の目の前にいる人は、『一人を除いて』全員襲い来る邪な闇から救えてはいた。 だが、誰かを救う、ということは同時に、誰かを見捨てる、ということでしかない。 否、何もせずとも、私は誰かを見捨てているのだろう。 もし、こんな身体の弱い私ではなく、物語に出て来る勇者のような人物が「力」を持っていたならば、見えない心の闇は、人から消え去っていたかもしれない、そう考えてしまう。 それならば、この「アゾット」を手にする前に私の目の前で救えなかった子犬も救えたのかもしれないのに... 小さな悲鳴、消えて行く命、心の中から何かが喪失した感覚。 思い出し、たまらなく恐ろしく、悲しく、苦しく...ベッドの毛布に涙の染みを作った事など何度あったことか。 愚かでしかなかった。 無力だった。 その犠牲が、私の全身を既に真っ赤な血の色へと染め上げる。 周囲の世界は、見捨ててしまった人達の怨嗟でドス黒く塗り潰され、なお手の平には、誰かの血の涙が鏡を生み出し、それを通して私へと呪いの言葉を連呼する。 許しを乞う事は、断じて無い。 乞う事こそ、許されない唯一無二の呪いなのだから。 —紅い。 理解している。 今まで切り殺した『邪悪』もまた、この世に生きる者達であることを。 ただ、この世に少し間違った産まれ方をしただけで、ここまで無慈悲に、肉片でしかないモノに成り果てるなんて。 理解している。 こうしなければ、『日常』は訪れない。 『かの者』の存在自体が、この世という、1部の天国と、9割9部の地獄である概念を蝕む毒だから、殺さなければならない。 彼等が長く居るだけで、今まさに、この地球に少しでも呪いをもたらすならば。 私は、その為に生まれたのだ。 世界を延命させる為に、阻害する者の一切を惨殺し、その可能性が1%でもあるものの全てを消し去る役目を担う者。 —赤い。 これが、私にとっての『日常』だ。 私がやらなければ、私が殺さなければ、終わってしまう。 私のせいで、誰かの笑顔が消えてしまう。 私が、誰かを殺してしまう。 —緋い。 誰かを、殺した? 人も、生き物も、生まれる前の胎児も、生まれる筈だった元の母体も。 みんな、殺した。 そうしなければ。 私は、自分の幸せを祈ってはならない。 その幸せを得たいと願ってはならない。 この世に生まれて時も忘れる程の齢からより、私にその権利はないのだから。 その幸せを持つかもしれなかった屍達が、私の全身を、自分自身の骨と血と血管、内臓と、残りの肉片で編み上げた鎖で締め上げる。 お前などが救われてはいけない。 私達を殺したお前などが。 私達の未来を奪ったお前などが。 『未来』など、と。 私は、誰かに笑ってもらうことが一番な幸せだった。 それを守っていると共に奪って。 この世界は、等価交換で出来ている。 何かを得るならば、何かを喪う。 きっと、私というたった一人の存在が、この世への奴隷となる事で、今この時、産声をあげ、学び、笑い、泣き、怒り、悲しみ、輪廻へと還る『日常』に生きることが出来ている何億もの人が救われているのだろう、と。 なんて安い対価だろう。 一人を生殺しにするだけで、誰かの救いが手に入る。 今まで、殺してきた存在達が、報われる。 そうでなくてはならない。 そうでなくては。 私の、永遠に足掻く意味が。 『なにもかも』を捨て、この道を選んだ理由も大義もなく。 奪っただけで、終わる。 私のせいで、他の人の幸せが、笑顔が、あ命が、意味が、価値が、未来が。 そこまで考えて、私は自我を捨てた。 殺す。 殺す。 救う為に。 殺す。 殺す。 笑顔を護る為に。 其処にあるものは、虚無かもしれない、と。 怯えながらも、私は殺す。 私が生きた歴史を、紡ぐ為に。 私が生まれたことを無意味にしない為に。 最後まで、私に笑顔を見せていった、子犬を裏切らない為に。 —『 』い。 ああ、私は誰だったか。 私とは、なんだったか。 ここは、あれは、それは、わからない。 何かが、崩れる。 終わりもなく、始まりもない『ワタシ』としての、何かが。 私は、なんの為に殺すのか。 この手にこびり付いたモノは、いつ付いたものだったか。 何をして、何を成すのかすら、忘れてしまった。 誰かの笑『 』。 誰かの『 』来。 もう、思い出せない。 ただ、虚空だけが有る。 誰かの声も聴こえず、呪いも、鎖も、有りはしない。 いや、一つだけ、覚えていた。 『殺す』 それが、日常。 しなければいけない気がした。 やらなければ何かがなくなってしまう気がした。 だから、殺した。 目の前のものを全て。 何かを殺す時に得られる、一種の満足感と、自己への嫌悪、悲哀達が私を満たしてくれる気がした。 その為に、殺す。 それ以外に、何も無いから。 『日常』。 私は、探す。 意味を。 きっとかつては知っていた私の一欠片を。 現れた全てを殺しながら。 『アゾット』、その名の持つ意味を裏切り、ただの殺戮鬼へと成り果てていることを、理解しながら。

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