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不自由な音の中で

耐えられない。もうたまらなかった。怖い、悲しい、辛い、痛い、苦い、暗い、憎い。いろんな想いを集めるだけ集め、無理に蓋をして抑え込んだまま、わたしは午前10時のプラットフォームに倒れ込んだ。
『なにあの子』『小汚いヤツ』『急いでるから誰か助けてあげねーかな』
 電車を降りてもまだソレは執拗にわたしを刺す。抑えていた蓋は壊れ、一気に溢れ返り、わたしは地獄の罪人のようにもがく。泣きたかった。でもそれをすれば、余計に苦しくなることをわたしは知っている。だからわたしはなるべく平気な顔でかがみ込んだ。
 しばらくすると駅員さんが声をかけてきた。いいや、ほんとは気づいていた。電車を降りてからずっと。『めんどくさいな』『眠いのに』『空いてる人いれば任せようかな』いくつかの迷いを通って向けられた手をわたしは素直に握れなかった。嫌だ、ムカつく、ギゼンヤロウ。わたしは今朝のママみたいにフラフラで立ち上がってその場を去った。『感じ悪いな』『せっかく助けてやったのに』耳を塞いでもわかる。意味なんてなかった。でも、こうしているのが何かのおまじないのような気がして。今、そう今。この瞬間だけでいい。ここにいる人の黒い想いが見える時間をなるべく減らしたい。わたしは息を上げながら走り、とうに遅れている学校へ向かった。
 教室の中はホカホカ暖かかった。席へ着くわたしに誰も何も言わない。もちろん、先生も。でもそれは耳に届かないだけ。わたしがノートを準備してるときもカバンを棚に入れてるときも聞こえてた。『臭い』『売春婦の娘』いつも聞いてる声。誰が言ってるのかもみんな知ってる。けれど、それを言ったところで誰が聞いてくれる?だってこの声はわたしにしか聞こえてないんだから。そうなるとまた声が大きくなる、知らない音が増える、味が増える。嫌だ嫌だ嫌だ。含みたくない。吐き出したい。いつもの電車みたいに予測不能のマイナスが飛び交うこと、イレギュラーは苦手だから。
 お昼になると、みんなお弁当を持ち寄って楽しくお喋りを始める。わたしはそんな時間が好きだった。みんな好きな話をして笑い合って、美味しいご飯を食べる。誰も今だけは悲しい話をしない。わたしの頭にも入ってこない。この教室の暖かさとわたしの中だけでの静けさが混じってとろけていく。この心地よさにウトウトしていた頃、誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえた。でも不思議だった。いつもみたいな怖さは感じない。優しい声。それがわたしと教室が溶け合った幸せな空間に落っこちてくる。
「七海ちゃん!」
 声の主は真昼ちゃんだった。彼女のおひさまみたいに明るい声は純粋にわたしの耳に入っていたのだ。わたしは足湯みたいにあの自分だけの空間に意識を留めたまま、まどろんだ声で返事をする。
「なにかな?」とわたし。
「食べないの?」と真昼ちゃん。
「いらない。だってないもの」とわたし。
「それなら分けてあげる!足りないなら言って!買ってくるから!」と真昼ちゃん。
『ほっとけばいいのに』と◯◯くん。
『可哀想って思われたいんだ』と△△ちゃん。
 気づけばわたしは、完全にあの教室へ戻っていた。いや、正確に言えば引きずり出された。
久しぶりに耳から聞いた、わたしの名前。でもすぐにわたしは別の場所で声を聞き取ろうとする。だから、幸せな空間は崩れた。わたしにとって最悪のアラームだった。
「ほら。サンドイッチだよ。好きな具材、好きなだけ食べて!あ、でも卵は1個だけ……ね?」
 再び聞こえる真昼ちゃんの声。本当に不思議。一つ一つの言葉がキレイに耳に入ってくる。先生の言葉も駅員さんの言葉にも必ずノイズがあった。耳へ入るとき、別の場所から入った声とくっつき合って大きくなる。無理に入ってきてはわたしを不安にさせる声。でも真昼ちゃんはそんなことしなかった。別の場所に入る声も彼女には……なかった。もしかしてわたしは普通の人になれたのかなって。
『でたでた、七海係』
 けれどその考えはすぐに否定される。やっぱり、おかしいんだ。
「わたし、帰る」
「え?七海ちゃん?」
 戸惑う真昼ちゃん。それはそうだよね。だって、変だから。おかしいから。教室を出ていくわたしを見て笑う声、馬鹿にする声。その間をわたしは進む。
 階段を降りるとき、「待って!」と聞こえる。真昼ちゃんだ。
「食べて」
 そう言って、サンドイッチがぎっしり詰まったランチボックスを手に持たせてくれた。
「いらない。それに、こんな綺麗なランチボックス汚しちゃう」
「じゃあ汚してよ。わたしが落とせないくらいに」
「真昼ちゃんは、どうしてそんなに優しくしてくれるの?だって、その……他の子とちがって、その……嫌じゃないっていうか、悲しいこととか言わなくて、それで……」
「悲しいこと言ってほしいの?」
「ちがう」
「じゃあなに?」
「ええっと、その……いただきます?」

 帰りの電車の中、頭の中はさっきの事でいっぱいだった。時折耳から聞こえる赤ちゃんの泣き声とそれに対するノイズ『うるさいな』『泣き止ませろよ』『なんでいつも泣いてばかりなの?』
 いつもならここで降りて一人で止まない嵐が過ぎるのを待っていたことだろう。けれどそうしなかったのは彼女の存在があったから。あのほんの少しの会話が薬みたいにわたしの中に優しく溶けていた。耳を塞ぐおまじないもいらないくらいに。わたしはこれ以上にないほどに幸せだった。多分それは今だけだろう。いずれ効果は切れて、またわたしを蝕む。だからそうさせないために、忘れないために、わたしはあの会話をエンドレステープみたいに再生し続ける。いつまでも、いつまでもわたしのことを守ってくれる、わたしだけのおまじない。
 家の前へ着き、戸を開けたとき中から声が聞こえた。知らない男の人の声。
「あの七海って子、いつになったら出ていくの?」
「知らない。あいつ気味悪いのよ『みんなの考えてることがわかるの』とか言って」
「なにそれ!病気じゃん!」
 ママも一緒になって笑っている。
 病気。これまで考えもしなかった言葉に頭を殴られる。戸を掴んでいた手が震え、じっとりと汗ばむのを感じた。怖い。
気づけばわたしは近くの公園にいた。思い出なんてない家をあとにして。途中、どこまでも二人の声が追いかけてくる気がして嘔吐した。怖い。嫌い。怖い。嫌い。心で嫌われるのが怖い。でも口にされるのはもっと怖い。だけどわたしは「病気」だから仕方ないの?
 ベンチに座ってランチボックスに目を落とす。薄汚いわたしの中で、それだけが一番星みたいにキラキラしていた。
「いただきます」
夢中で食べていた。食べながら気づいたが真昼ちゃんは「1個だけ」と言っていた卵サンドも全部くれていた。本当に優しい子。
 静かな公園。誰の声も聞こえない。今ならいいよね?わたしは抑えていた涙を流し、ランチボックスを汚した。

「昨日は、その……ありがとう。ごちそうさま。洗ったけど、多分、わたしが触ったから、汚い」
「いいよ。だってわたし、落とせないくらい汚していいって言ったでしょ」
 真昼ちゃんは人のいない静かな中庭で会う約束をしたこと、昨日ママに殴られて大きなシップを貼ったことにも一切触れなかった。「なんで?どうして?」その先に少しでも悲しい話題があってもいいはずなのに。わたしはそんな真昼ちゃんが……怖かった。同時に嫌いだった。
「ねぇ」
「え?」
「わたし、真昼ちゃんが嫌い!大嫌い!」
「うん」
「だって、真昼ちゃんは優しいから、わたしを助けてくれて、サンドイッチをくれて、病気なんて言わなくて」
「うん」
 やめて。でももう止まらなかった。昨日よりも泣いていた。たくさん、たくさん。それでも聞こえてくるのは「うん」という優しい声だけ。なんで?どうして嫌わないの?
「でも真昼ちゃんより嫌いな人がいるの」
「だあれ?」
「わたしよ。わたしが嫌いなんだ。嫌な話しか頭に入らないわたし。でも優しいと疑っちゃうわたし。真昼ちゃんに嫌いって言うわたし。みんなみんな嫌いなの!わたしなんか、生まれなかったらよかったんだよ」
「なんかなんて言うなバカ!」
 バカ。確かにそう聞こえた。はっきりと。「小汚い」「めんどくさい」「病気」そして「バカ」どれも嫌な言葉。悲しい言葉。でもなんで?なんでこの「バカ」はこんなに優しいの?ノイズなんてない、黒くもない言葉。
「ほら、悲しい話してあげたよ。だからもう、七海ちゃんも言わないで」
「……うん。ごめん。ごめんね」
 もう悲しい話はしない。そう約束した真昼ちゃんから初めて声が聞こえた。『少し、怒りすぎたかな?今ので本当に嫌われたらどうしよう』
嘘つき。もう悲しい話はしないって言ったのに。全部聞こえてるよ。でも優しい。悲しくて、優しい話。

コメント

月菜海なこ - 2025-10-12 07:50

けにおさん!コメントありがとうございます!
なるべくなら、何も考えずに生きていきたいですよね~(⁠ ⁠´⁠◡⁠‿⁠ゝ⁠◡⁠`⁠)この世に
は見たくないものが多すぎるから。

けにお3 - 2025-10-11 16:58

いい話や!

妖怪サトリのような人の心の声が聞こえる女の子(七海ちゃん)のお話。
キーマンは真昼ちゃんという、ちょっと間の抜けた名前のお友達の女の子。
真昼ちゃんのような、裏表ない、くったくのない純粋なお友達がいるだけでも、七海ちゃんは幸せだと思うよ。
とりまく環境、家庭環境などは最悪っぽいけども。

さて、現実世界でも、相手の表情や、相手の口のききかた、相手の接し方などなどから、ある程度は相手が何を考えているか分かりますよね。
口には出てないけど、「あーこの人はきっと、こんなことを考えて、それでこういう発言や、行動をしたんだろうな?』って裏が見え隠れ。
このお話ではないけども、そういう人の心の中って得てして、ロクなものじゃない事が多いですからね。
知らぬが仏といいますか、知らない方が幸せかもしれないけども、特に集団が好きな日本で生きていくには、
自己防衛のために、周囲の人達の心の中を読むことは必要不可欠ですからね。

でも、そんな人の心の中を読もうと躍起になって生きていると、疲れてくるんだよね。
正直、僕はもう疲れたよ!
なので最近は、あまり空気や他人の心の中を読もうとしないようにしていて、そのかわり他人には優しく親切に接することにしたのです。