サスペンス | イベント: 同タイトル | 2025年10月 | 文字数: 2307 | コメント: 6

煙草と嘘

 煙草をやめているはずなのに、寝起きにたばこの匂いを感じた。  あの甘く、少し乾いた HOPE の香り。  窓の隙間から射す光が、部屋の埃を照らしていた。  外は冷たく澄んで、どこか急いている。  テレビの中で臼が鳴り、窓の外には焼き芋の煙。  冬の匂いがした。  卓袱台の上には競馬新聞。  ページの端に缶コーヒーの輪が残っている。昨日のものだろう。  コートを羽織り、新聞を折ってポケットに突っ込んだ。  暇だし、ちょっと覗いてみようか――そんな気分だった。  歩き出した足は、自然と駅の方へ向かっていた。  中山競馬場は混んでいた。  年末の空気と人の熱気が入り混じり、息苦しいほどだった。  パドック裏の一角。人の輪の向こうに、ひとつの机があった。  折りたたみ机と段ボール箱。くたびれたレインコートにパナマ帽。  顎の下から首元にかけて髭をぼうぼうに蓄えた男が、煙草を咥えて座っていた。 「間隔が詰まってると嫌う人もおるがね。見てごらんなさい、脚の余裕が違う」 「前走は詰まりましたな。押し込めて嫌がった。あれは馬のせいじゃない」 「蹄の音が弾けていた。あれは来ますよ……今日は特にね」  押しつけがましくはないのに、どこか耳に残る声だった。  煙の向こうで、何かが引っかかる。思い出せそうで、思い出せない。 「……で、どの馬が来そうなんだ?」  そう口にすると、男は口角をわずかに持ち上げて言った。 「おっと、それを聞いちゃいけません。わしには見えてますがね……ここから先は有料でして」  段ボール箱から白い紙を一枚。煤けた指でつまみ上げ、こちらに差し出す。 「千円で。外れたら、煙草一本くれたらそれで結構。HOPEでいいです」  財布から千円札を出すと、男はそれを丁寧に畳んで懐にしまった。  手渡された紙には、こう書かれていた。 『有馬記念 本線:馬連11−14』  ただの数字の組み合わせなのに、どこか既視感があった。  手の中に、妙に馴染んでくる。  煙草の火が揺れている。男がふっと顔を上げた。 「おにいちゃん、わしの言うことを――よう覚えときな」  その言葉が、胸の奥に何かを残した。  けれど、それが何かまではわからなかった。  手元のマークシートに数字を記入する。  芯の減った鉛筆で、11と14を慎重になぞった。  何度も見返す必要などなかったはずなのに、三度も確認していた。  折れないよう、擦れないよう、胸元にそっと仕舞った。  窓口に並びながら、一万円札を握る指が妙に冷えていた。  札の端をしっかりと押さえていた。  シートを差し出し、馬券を受け取る。白い紙一枚。  けれど、それがすべてのように思えた。 ――第70回、有馬記念。 「さあ、スタートしました!」 「14番、好スタート! 外から押し上げていく!」 「11番・ジャスティンパレスも中団、脚を溜めています!」 「さあ、直線!」 「先頭は7番・イクイノックス!」 「11番が来た! 来たぞ!」 「14番も脚を伸ばしてくる!」 「残り200メートル!」 「7番が突き放す!11番、届くか!?いや……!」 「14番、伸びが止まった!」 「ゴールイン!勝ったのは7番・イクイノックス!2着は13番か!」  歓声が弾けた。白い息が混ざり合い、熱が場内に立ちこめる。  11番。あそこまで来ていた。14番も、一瞬だけ希望を見せた。  だが、2着にはわずかに届かず、馬券は紙くずになった。 「……嘘だろ。あの予想屋め……!」  その言葉が、喉の奥から漏れた。  電車の中では、ただ黙って窓の外を見ていた。  夜の街が、年の終わりを滲ませながら通り過ぎていく。  何も考えずに歩いていた。  いくつかの角を曲がり、ふと、道が開ける。  辻だった。  電灯がひとつ、チカチカと明滅している。  足が止まった。空気が重たく感じられた。  記憶の底にある何かが軋んだ。  クラクション。叫び声。視界が傾いた。  アスファルトの冷たさが頬を撫でる。  手の中には破れた新聞。  切れ端から、日付だけが浮かび上がっている。――今日だった。  煙草の匂いがした。HOPEの、あの甘く焦げた香り。  指先に火の感触。誰かの声が、頭の奥で鳴っていた。 “この辺で災難がある”  その言葉と同時に、視界の中で何かが弾けた。  明滅する街灯。擦れる声。くすんだパナマ帽。  あの夜の、黄昏時の辻が、はっきりと浮かび上がった。  夢だったと思っていた光景が、記憶の底から掘り起こされる。  胸の奥がぐらりと揺れて、息が詰まる。  辻。煙草。レインコート。ガラガラ声。あの男。 「……嘘だろ」  胸の奥が焼けつくように痛んだ。肺の奥に空気が入らない。  倒れ込んだ視界の端で、電灯が明滅している。  手の中で、何かが動いた気がした。  HOPEの箱。銀紙がひらりと揺れ、一本の煙草が転がり落ちた。  その先端に、淡い火がともった。  誰かが、そっと指先で灯を移したように。  白い煙が立ちのぼり、空へ消えていく。  甘い香りが鼻を抜けた。  ――それが、最後の呼吸だった。    ――煙のように、静かに溶けていった。

コメント

けにを - 2025-10-28 12:22

茶屋さんへ

茶屋さんが描いたあの男があまりにも良い味出ていたものですから、ついつい続編モドキを描いちゃいました。

昔、続編と言うか、リレー小説で、人から人に話を引き継いで、繋いで、みんなで一つの物語を紡ぐって遊びをしたことがあります。
あれ、面白かったなー!延々に終わらないの。
描いてる時、それを思い出しました。

まあ今回は、同タイトルゲームなので、続編にして、事故に遭わせてコレで完結としました。

あやかって、怪人を引き継いで、遊ばせていただきました。
描いてて、とても楽しかったです❗️

けにを - 2025-10-28 12:11

ヒヒヒさんへ

そうなのです。同一人物でしたー!

茶屋さんの作品読んで、辻の男が、昔、競馬場の付近で見たあやしげな予想屋のオジサンに見えたんだ。

そこで、続編を描くことにしましたー!

そう言えば、以前、茶屋さんの祭り作品にヒヒヒさんがスピンオフか、続編書いて、それに感化されて、追随すべく私も続編を書いた気がします。

だいぶフザケテ描いたものだから、ヒヒヒさんからえらく怒られた気がします。原作への冒涜だ!みたいな。🙇今を思えば酸っぱくも懐かしい思い出。

さあ、今からヒヒヒさんの同タイトルを読みますぞー

ワクワク

けにを - 2025-10-28 12:03

ナカマクラさん、ありがとうございます。

辻の男は、嘘の男とも言う。

昔、競馬場の近くには、予想屋と言って、いかにも怪しげなおじさんが「当たるよー当たるよー」とか言って、予想を売っていたんだ。

純真な私は信じて買うのだけど、コレがまた当たらないんだよねー。

普段はまったく当たらない胡散臭いオジサンだけど、主人公の事故だけはちゃんと、本気出して、当てていたと言うお話だったのでしたー!

茶屋 - 2025-10-27 00:43

わー、ちょっと、ちょっと。あの男が再登場!!
けにおさんが書いてくれたおかげで、怪人としての異質さが際立つようになりました。
煙草の銘柄ごとに性質が違うとか、ありそうですね。競馬が外れるのは解釈一致でおもしろかったです。
これもまた、怪人『辻の男』の一つのエピソードであり、同タイトルの醍醐味でした!!

ヒヒヒ - 2025-10-26 21:05

描写を追っている間に、いつの間にか競馬場へ向かう男の姿が浮かんできました。
しかし馬券の予想屋と辻の男、果たして同一人物なのか……?

なかまくら - 2025-10-26 17:42

けにおさん! 辻の男がまた登場してるじゃないですか!
競馬・・・・・・はずれかーーいっ!!
災難に遭ったのも、その遠因は、もともと辻の男にあって、何も関与しないことは、当てられないのかもしれませんね。