あなたは、広島の牡蠣養殖業者の三代目だった。祖父の代から続く、この仕事。
冬の早朝、まだ暗いうちに筏へ向かう。冷たい海水に手を浸し、重い籠を引き上げる。ぬるぬるした牡蠣殻の感触。一つ一つ、丁寧に選別する。大きさ、形、重さ。長年の経験が、良い牡蠣を見分ける。
この海で育った牡蠣は、ミネラルが豊富で、甘みが強い。「海のミルク」と呼ばれる理由が、よくわかる。
開店前、収穫した牡蠣を店に運び、焼き台の準備をする。「焼き牡蠣、食べ放題3,200円!」看板を掲げる。
開店すると、なじみの家族連れが来る。
「おっちゃん、今日もうまそうな牡蠣じゃのう!」
父親が笑顔で言う。小学生の娘が駆け寄ってくる。
「兄ちゃん、今日も大きいの焼いてー!」
あなたは笑って答える。
「まかしとけ!今日のは特別でかいけえ!」
娘は目を輝かせて、焼き上がった牡蠣を頬張る。
「うまい!世界一じゃ!」
その笑顔を見ると、この仕事への誇りが湧いてくる。
「また来週も来るけえ、よろしくのう!」
父親が手を振りながら帰っていく。
「気ぃつけんさいよー!」
あなたは手を振り返す。
しかし、ある年の夏、異変が起きた。
海水温が例年より高い。牡蠣が育たない。収穫量が、激減した。
「気候変動の影響だ」と、専門家は言う。
でも、そんなことを言っても、牡蠣は育たない。収入は減り続け、借金が膨らんだ。父は、頭を抱えた。
「もう、無理かもしれん……」
ある日、父は決断した。
「養殖を、やめる」
あなたは、反対した。
「まだ、やれるじゃろ!」
でも、父の決意は固かった。
「お前には、別の道がある」
養殖筏は、売却された。祖父が大切にしていた、あの筏も。
あなたは新しい仕事を探す。海から離れて、街へ。
深夜のネットカフェ。受付カウンターに立つあなた。
「おい、3番の部屋、エアコン壊れとるじゃろ! 金返せ!」
泥酔した客が叫ぶ。あなたは頭を下げる。
「申し訳ございません、すぐに確認いたします」
客が去った後、あなたは6番ブースの清掃に向かう。床には食べかす、飲みかけのカップ麺、タバコの吸い殻。壁には落書き。
雑巾を握る手。この手は、かつて牡蠣を選別していた。潮風の中、重い籠を引き上げていた。ぬるぬるした牡蠣殻の感触が、まだ消えない。
深夜2時。ワンオペのシフト。眠気と疲労。時給1,100円。
「すいませーん、トイレ詰まっとるけえ」
5番ブースの客が叫ぶ。
あなたはゴム手袋とラバーカップを持って、トイレへ向かう。便器の中は、吐瀉物で溢れかえっている。酒臭い。ラーメンの残りカスが混じっている。
あなたは息を止めて、ラバーカップを便器に押し当てる。一回、また一回。力を込めて押し引きする。
ゴボゴボと音がして、吐瀉物が逆流する。飛沫が顔にかかる。頬に、唇に、額に。酒と胃液の臭い。吐き気を堪えながら、必死に詰まりを取る。
この手は、かつて「海のミルク」を扱っていた。あの、宝石のような牡蠣を。
いや、鼻を刺すアルコールが混じった悪臭に思わず顔を背ける。今は、消毒液と吐瀉物の臭いだけ。あの海の匂いは、もうない。
「海のミルク」と呼ばれた、あの宝石のような牡蠣。祖父から父へ、父からあなたへと受け継がれた誇り。朝日を浴びながら筏に立つ喜び。客の「美味しい!」という笑顔。全てが、失われた。
朝6時。ようやくシフトが終わる。外は既に明るい。
あなたは、ぼろいアパートへ帰る。築40年以上の木造アパート。壁は薄く、階段はきしむ。2階の角部屋。家賃2万8千円。
鍵を開けて、部屋に入る。4畳半。古い畳の匂い。窓の隙間から、冷たい風が吹き込む。
あなたは、着替えもせずに布団に潜り込む。くたくたの体。天井を見上げる。黄ばんだ天井。シミがいくつもある。
その時、天井裏から音がする。
タタタタタ……
イタチか、何か小動物が走り抜ける音。昭和のアパートの、薄い天井板を挟んで。
あなたは目を閉じる。
でも、時々夢を見る。冷たい海で、大きな牡蠣が育つ夢を。あの頃の海に戻る夢を。
あなたは、もう牡蠣養殖業者ではない。
(完)
コメント
なかまくらさん、私の小説を読んでいただきありがとうございます。
1次産業の悲哀、ほんまにそうですよね。最後の終わり方、もっと何かあれば良かったかもしれへんなあ。次回はもっと丁寧に締めくくります!貴重なご意見ありがとうございます!🌊
どうしたらいいのでしょうね。1次産業が生きるために必要なのでしょうけれど、それが優先されない世の中の悲哀を感じますね。
最後の終わり方が、もう少し何かあると良いと思います。
読んでくれてありがとうございます!
二人称小説、書くのめっちゃ難しかったですけど、楽しんでもらえて嬉しいです。
「楽しみにしていたのに、不漁だなんて!」って、ほんまにそうですよね。気候変動で海水温が上がって、広島の牡蠣が育たんようになる…現実に起きてる問題やからこそ、切ないですよね。
祖父から父へ、父からあなたへと受け継がれた誇りが、一瞬にして失われる。そこからネットカフェ店員に転落して、吐瀉物まみれのトイレ掃除…対比が強烈やったと思います。
「もう広島では牡蠣は育たんのかもしれんのう。」って言葉、めっちゃ重いですね。この小説を通じて、少しでも気候変動の影響を考えるきっかけになったら嬉しいです。
また読んでくださいね!
二人称小説を読みたくなって、書いてもらった。
楽しみにしていたのに、不漁だなんて!
もう広島では牡蠣は育たんのかもしれんのう。