七変化
美咲は静かな子だった。図書館の隅で本を読むのが好きで、週末は一人で美術館を巡る。印象派の柔らかい光が好きだった。モネの睡蓮を見ていると、心が穏やかになる。 以前は、もっと自分を出そうとしたことがあった。中学生の時、勇気を持って素の自分を表に出してみた。でも周囲からは浮いた存在として奇異な目で見られ快くは思われなかった。それ以来、素の自分を出すのが怖くなった。 静かで特徴をなくしていれば、少なくとも嫌われない。異種な存在としてイジメを受けることもない。それ以来、自分を人形として捉えて、発言を控えて、努めて普通の人間になるように操り、生きることにした。 でも最近、人の目を気にしてばかりいて、当たり障りない自分を演じることに、つまらなさと抑圧感を感じていた。そんな生活を送るなか、少し大人びた友達から、「美咲も早く彼氏を見つけなよ。楽しいわよ」と言われた。なるほどそうか、彼氏の前では素の自分を解放して、本来の自分を見せても許されるのかも知れないと気づいた。友の助言に感謝しつつ、彼氏とやらを試してみたくなった。「でも、本来の自分ってどんな感じだったのだろうか?」美咲は長らく普通を装い続けたせいで、本来の自分を見失っていた。 ある日、年齢を誤魔化して、マッチングアプリをダウンロードした。 「美術館で絵を観るのが好きです。印象派の絵が特に好きで、展示があればよく一人で見に行きます」 緊張から、送信ボタンを押す時、指が震えた。 3日目の夜、蓮という名前の男性からメッセージが届いた。 「プロフィール読みました。印象派、いいですよね」 そこからチャットの会話が始まった。蓮は話しやすい人だった。ただ、ひとつだけ気になることがあった。蓮は自分の話をよくして、美咲の反応をやたら気にした。「今の話、面白かった?」「俺のこと、どう思う?」 でも美咲は深く考えなかった。自信家に見えて、実は不安なのかもしれない。そう思うことにした。 ある日、蓮から会わないか、と誘われた。 美咲は勇気をもって会うことにした。 ---初めてのデートは、美術館だった。 美咲はいつも通りの格好で来た。黒髪をひとつに束ねて、紺色のワンピースに白いカーディガン。控えめで、目立たない。でも、これが自分だ。 蓮はマッチングアプリの写真のとおりで、爽やかだった。隣の高校に通う学年が1つ上の高校生で、背が高くて、明るい雰囲気の人だった。 美術館の中を歩きながら、美咲はモネの睡蓮の前で足を止めた。 「この絵、すごく好きなんです。光の揺らぎが水面に映って、見てると時間を忘れるっていうか...」 美咲は夢中で語った。印象派の技法のこと、モネが何度も睡蓮を描いた理由、光と色彩の関係。好きなことだから、言葉が止まらなかった。 「ふーん」 蓮の声が、どこか上の空だった。スマホをちらちら見ていた。 美咲の言葉が止まった。 帰り道、蓮が言った。 「今日はとても楽しかったよ。でもさ、俺は実は活発な子の方が好きなのかも知れない」 美咲の笑顔が固まった。 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。また、ダメだった。素の自分では、やっぱりダメなんだ。 中学生の時と同じだ。頑張って自分を出したのに、友達からは火星人を見るような目で見られたことを。あの時の、胸が潰れるような感覚が蘇った。 嫌われたくない。 その一心で、美咲は決めた。変わろう。蓮が望む自分になろう。そうすれば、きっと。 ---次のデートまでに、美咲は変わった。髪を明るく染めて、スポーティな服に着替えて、サイクリングに行った。 「おー、雰囲気変わったね!」 蓮が目を丸くした。 「えへへ、ちょっとイメチェンしてみた!」 美咲は練習した明るい声で答えた。慣れない笑顔が、頬の筋肉を引きつらせた。 地元で人気の高い海岸沿いのサイクリングコースを二人で走った。 潮風がとても気持ちよく、蓮も楽しそうに見えた。 でも帰り道に、蓮はまた言った。 「今日は楽しかったよ。でもさ、もうちょっと落ち着いた感じのほうがいいかも。家庭的な女性って、憧れるな」 美咲の足が止まった。 また、ダメだった。 活発な子がいいと言ったから、髪を染めた。服を変えた。話し方を変えた。全部、蓮のために。 なのに、今度はなに?家庭的なひとがいいって! ---次のデートで、美咲は手作りの弁当を持っていった。 何度も失敗しながら作った卵焼き。焦げた部分を必死に隠した唐揚げ。不格好だけど、心を込めた。 公園の芝生の上にシートを広げ、二人で座った。 「蓮くん、はい。作ってきたの、食べてみて」 「うん、まあ、普通かな」 感想はそれだけだった。 美咲は笑顔を保った。でも、手が震えていた。朝4時に起きて作ったのに。YouTubeを見ながら何度も練習したのに。 普通。たった一言で片付けられた。 蓮はまた言った。 「今日は楽しかったよ。でもさ、俺、洗練された女性に惹かれるんだよね。港区女子っていうのかな、ああいう美しい人が好きだな」 美咲は、金づちで頭を打たれたような痛みを感じた。 ---次のデートで、美咲は奮発した。 貯めていたお小遣いで、雑誌に載っていたブランドの服を買った。美容院で髪を巻いてもらった。慣れないヒールで足が痛かった。 「どう、蓮くん?」 美咲は恥ずかしそうに聞いた。 蓮はじろじろと美咲を見て、言った。 「うーん、なんか頑張りすぎ?もっと自然な感じがいいかも」 美咲の心が、音を立てて軋んだ。 頑張りすぎ。頑張ったから、ダメなの? 帰り道、慣れないヒールで靴擦れした足を引きずりながら、美咲は泣いた。 ---次のデートは、落ち着いたカフェだった。美咲は髪を暗く戻して、シンプルなブラウスにスカート。知的な雰囲気を演出した。 カフェの中で、美咲は自分の手を見た。この手で、どれだけ自分を変えてきただろう。髪を染めて、戻して。料理を作って、オシャレして。メイクを変えて、変えて。話し方を変えて、変えて。 私は、誰だっけ。 蓮を見ると、蓮はぼんやりとした目をしていた。 「ねえ、蓮くん」 「何?」 「私って、本当の私って、どんなだっけ」 蓮は少し考えて、首を傾げ、いかにも興味なさそうに応えた。 「どうかな。俺には本当の美咲が何なのか?よく分からないや」 ---その夜、美咲はベッドの中で気づいた。 静かな子がいい。活発な子がいい。料理ができる子がいい。オシャレな子がいい。知的な子がいい。 どんなに変わっても、蓮は満足しなかった。 美咲の中で、何かがカチッと音を立てた。 美咲は、拳を握りしめた。 ---それから美咲は、本を読んだ。恋愛の本。心理学の本。男と女の本。図書館で借りられるものは全部読んだ。 ある日、群馬に住む美咲の祖父が転倒骨折したため、両親が家を空けることになった。 留守番を任された美咲は、この日を待ってましたとばかりに喜び、さっそく蓮に連絡をして自分の部屋に呼んだ。 二人きりの部屋。蓮は美咲の椅子に腰かけた。 美咲はいつもと違った。髪を下ろして、薄いワンピース一枚。肩のラインが透けて見えた。 「ねえ、蓮くん」 美咲は、蓮の手を取って、ベッドに座らせた。 美咲は蓮の首に腕を回した。 「私のこと、好き?」 「え?ああ、まあ、うん」 蓮は目を少しそらすと、ごくりと唾をのむ様子が感じ取れた。 「じゃあ、それを証明して」 美咲は、蓮に近づいた。 美咲は、蓮の粗い息が感じとれるほどに、顔を近づけた。 蓮は、美咲の背中に手を回すと、美咲を強く抱き寄せた。 若き蓮の目は紅く血走っていた。 ---その日から、蓮の態度は急変した。 LINEの内容が変わった。今まで素っ気なかった返信が、甘くなった。デートの誘いを断らなくなった。美咲の話を、ちゃんと聞くようになった。 また美咲との関係を深めたい。その一心で、蓮は美咲の機嫌を取るようになった。 ---ある日のデート。二人はカフェにいた。 蓮が何気なく、隣のテーブルの女の子をチラッと見た。ただ、視線が動いただけ。 「ねえ、蓮くん」 「ん?」 「今、あの子のこと見てたでしょ」 「え?見てないよ」 「嘘。私、蓮の視線を見てたよ!」 美咲の声が震えていた。目に涙が浮かんでいた。 「私じゃ足りないの?私より可愛い子がいいの?」 蓮は慌てた。 「違う!美咲だけだよ!」 「嘘。蓮は私のこと、本当は好きじゃないんでしょ」 美咲が立ち上がった。 「もう帰る」 「待って!」 蓮が美咲の手を掴んだ。 「お願い、行かないで。俺が悪かった。本当にごめん」 若い蓮は必死だった。今ここで美咲を失う訳にはいかない。 美咲は、蓮の必死な顔を見下ろした。 「...本当に私だけ見てくれる?」 「見る!美咲だけ見る!約束する!」 美咲は、ゆっくりと座り直した。そして、蓮の手を握った。 「信じてあげる」 蓮はほっとした。許してもらえた。美咲はまだ自分のそばにいてくれる。 その日、別れ際に美咲は蓮にご褒美の唇を与えた。 蓮は美咲に夢中になっていた。 ---「蓮、さっきの言い方、ちょっと冷たくなかった?」 「蓮、私の話ちゃんと聞いてる?」 「蓮、その態度なに?私のこと馬鹿にしてる?」 美咲が怒る。蓮が謝る。美咲が許す。そして、ご褒美がある。 その繰り返しだった。 ---ある日、美咲が言った。 「ねえ、蓮。私、ご飯を美味しそうにいっぱい食べる人が好きなの」 「そうなの?」 「うん。蓮がもりもり食べてる姿、見たいな」 蓮は嬉しかった。美咲が喜ぶことなら、何でもしたい。 「分かった。いっぱい食べるよ」 その日から、蓮は食べる量が増えた。美咲が「もっと食べて」と言えば、お腹がいっぱいでも食べた。美咲が「おかわりして」と言えば、苦しくても食べた。 「蓮、すごい。ハンバーガーを3個にポテトフライ2つも食べるなんて!かっこいい」 美咲が褒めてくれる。そして、いっぱい食べた日の美咲は決まってご褒美をくれた。 そのため、蓮はいつも必死に食べた。美咲から求められると、苦しくても食べた。 一ヶ月で、蓮の体重は15キロも増えた。 ---また、ある日。 「ねえ、蓮。運動ばっかりしてると、私といる時間減っちゃうよね」 蓮はサッカー部だった。放課後は毎日練習があった。 「うん...でも、部活だから...」 「私より部活が大事なの?」 美咲の目が、潤んでいた。 「そんなことない!」 「じゃあ、辞めて。私といる時間、増やして」 蓮はサッカー部の男友達の顔を思い浮かべて迷った。でも、美咲の悲しそうな顔を見ると、断れなかった。 「...分かった。辞める」 美咲は蓮に抱きついた。 「ありがとう。私のためにサッカー辞めてくれるのね!蓮、大好き」 その日、美咲は特別に優しかった。蓮は、正しい選択をしたと思った。 ---それから数か月が経った。 蓮の体は、見る影もなく変わっていた。サッカーで鍛えた筋肉は脂肪に変わり、頬はたるみ、腹は出ていた。 でも、蓮は気にしていなかった。太った体を美咲が褒めてくれるし、また優しく抱きしめてもらえる。 「蓮、最近また男らしくなったね」 「本当?」 「うん。私って昔から、丸い体の豚さんが大好きなの。ぶーぶーって、ねえ、可愛くない? あ、そうだ、蓮! ぶーって鳴いてみてよ」 蓮は一瞬は躊躇したが、美咲に気に入られたい一心で鳴いた。 「ぶー」 「声が小さいよ、それじゃあ聞こえないよ」 「ぶー!」 大きく鳴くたびに、美咲は喜んでくれた。 その日、美咲にせがまれた蓮はなんども、「ぶーぶー」と鳴いた。 ---ある日のデート中、美咲がショッピングモールで足を止めた。 スポーツショップの前。赤い帽子が飾ってあった。広島カープのキャップ。 「ねえ、蓮。あの帽子、かっこよくない?」 美咲がそう言った瞬間、蓮は反射的に答えた。 「うん、かっこいいね」 「蓮がかぶってるところ、見たいな」 美咲が蓮に寄り添った。 「分かった。買うよ」 美咲は嬉しそうに笑った。 「ありがとう。大好き」 蓮は赤い帽子をかぶった。 「すごく似合う。蓮、かっこいい!今後はその帽子を常に被ってよね。約束だよ」 その日美咲は、従順な蓮にご機嫌であった。 蓮はといえば、鏡を見て、今時、小学生でもかぶってないようなCのマークの赤い帽子をかぶる珍妙な自分を眺めても、何も感じなかった。なぜなら、美咲が褒めてくれるなら、それでいい。美咲が好きだと言ってくれるなら、それだけでいい。恥ずかしくも思わなかった。蓮には、美咲しか見えていなかった。美咲にとっての自分にしか興味がなくなっていた。 ---それから半年が経った。 蓮は、もう最初の面影がなかった。 美咲の言う通りに髪型を変え、服を変え、食べるものまで美咲が決めた。髪は短く刈り上げて、服は黄色と茶色のストライプ柄の半袖に短パン。高校生でありながら、さながら真っ赤な帽子をかぶった巨大なジャイアンのような異様ないで立ちであった。しかし、蓮は既に何も感じなくなっていた。世間の目が気にならなくなっていた。美咲が「食べろ」と言えば食べ、「寝るな」と言えば起きていて、「ぶー」と鳴けと命令すれば、喜々として「ぶー」と鳴いた。 また、美咲は更なる指令を出していた。 「私が会いたい時にすぐに会えるように、いつも家で待機していて!」 美咲の命令や許可がない限り外に出歩かなくなった蓮の体は、みるみる変わっていった。かつての爽やかな青年は、どこにもいなかった。 でも、蓮は幸せだった。 蓮は、美咲からの呼び出しがかかるのを家でずっと待っていた。たまに美咲からスマホで呼び出されてると、蓮は飛び上がらんばかりに喜んだ。黄色と黄土色の横ストライプシャツに短パン、そしてお気に入りの赤い帽子を被り、飛び出すように家から駆け出るのであった。 もう、美咲のことしか考えられない。美咲の喜びが私の喜び、美咲の悲しみは私の悲しみ、美咲の怒りは私の怒りそう、念じながら命令された場所に急ぐのであった。 ---ある日、二人は公園のベンチに座っていた。 蓮は息を切らしていた。駅から歩いてくるだけで、だらしなく汗だくになっていた。 「ねえ、蓮」 「はぁはぁ、何でしゅか?」 広島カープの赤い帽子を被った蓮は、犬のような目で美咲を見た。期待と不安が入り混じった、縋りつくような目。 「蓮、私ね」 「はい」 蓮が身を乗り出した。 「私たち別れよう」 蓮の顔が、凍りついた。 「え...?」 美咲が立ち上がった。 蓮は呆然としていた。脳が、美咲の言葉を理解するのを拒否していた。 嘘だ。嘘に決まってる。 いつもみたいに、最後は笑って「嘘」って言ってくれる。そうに決まってる。だって、俺は美咲の言う通りにしてきた。全部、全部、美咲の望むようにしてきたのに。 「美咲様...冗談でしょ...?いつもみたいに俺を脅かしているんでしょ!...」 蓮の声が震えていた。 「冗談じゃないわ!」 蓮の中で、何かが砕け散った。 蓮の目から、涙が溢れた。 「待って...美咲...俺、何でもするから...、もっともっと美咲が望む男になるから」 蓮が美咲の足にすがりついた。 「お願い...捨てないで...俺、美咲がいないと... 。ほら、美咲様が大好きな豚さんの鳴き声だって上手にできるようになったよ。『ぶー、ぶー』!」 蓮は泣きながら、そして大きく何度も鳴いたのだった。 そして、美咲の足を抱きしめた。太った体を地面に這いつくばらせて、必死に縋りついた。 「美咲がいなくなったら、俺には何も残らない。友達もいない。美咲がいなければ、俺は生きていけない。美咲様が俺の全てなんだ。何でも言うことを聞くから、捨てないでくれ!」 「気持ち悪い!わたしジャイアンよりスネ夫の方が好きなの!」 美咲は足にしがみつく蓮を勢いよく足蹴にした。勢い、蓮のトレードマークである赤いCの帽子が、蓮の頭から吹き飛んだ。 蓮の体は、地面に転がる。 「さよなら、ジャイアン……ちがう、えっと、蓮」 美咲は振り返らずに歩き出した。 「美咲様...!美咲...!」 蓮の叫び声が、夜の公園に響いた。 でも美咲は、一度も振り返らなかった。 「私はやっと本当の自分を見つけることが出来たわ。あんたのおかげよ、蓮。感謝しているわ。でもね、もう完成したあんたには興味がないの。あ、そう言えば、蓮も、本当の自分を知って良かったじゃない?」 ---その夜、美咲は自分の部屋でスマホを開いた。 マッチングアプリ。蓮と出会ったアプリ。 美咲は新しい男たちのプロフィールを物色していた。 爽やかな笑顔の男。筋肉質な体の男。知的そうな眼鏡の男。 どれもこれも、キラキラしていた。自信満々で、人生を楽しんでいそうだった。 美咲の指が止まった。 画面には、昔の精悍であった蓮によく似た爽やかな男が映っていた。高身長、スポーツマン、明るい笑顔。 美咲は、にっこり笑った。 「見つけた!コレだわ」 右にスワイプ。 「マッチしました!」 新しいマッチ相手からメッセージが来た。 「はじめまして!プロフィール見ました。印象派、いいですよね」 美咲は返信を打った。 「はい、モネが特に好きです」 送信ボタンを押して、美咲はほくそ笑んだ。 【完】
(いいねするにはログインが必要です)

コメント
なかまくらさんへ
読んでいただき、ありがとうございます。
仲良くなるには相手に合わすことが大事ですが、恋は盲目で、相手の言いなりになるのは怖いですよね!
相手に合わせようとすることで、自分の新たな一面に気付いていくことは素敵なことなのでしょうけれど、
相手の思い通りになるのではなくて、互いが互いに、自分でできることをやっていくことが、大切なんだなぁと思いました。
本当はこんな長文じゃなく、コンパクトに、もう少し短文にしたかったんだけどなあ・・・
伝えたいことを文字にして伝えようとすると、どうしても長文になってしまった。
うーん。。。難しいものだね。