恋愛 | 文字数: 8565 | コメント: 2
🎪 2025年〜2026年の祭り の語句 (5つ以上使用が条件)
煙草 コンドル 時間を止める 少女 怪盗 七変化

コンドルの煙

地面が揺れた、と思った。 昭和五十年、九月。俺は十七だった。 親父に連れられて、初めて岸和田のだんじり祭りを見に来た。俺が育った和泉のニュータウンは、戦後に山を切り開いて作られた新興住宅地だ。サラリーマン家庭が整然と並ぶ、根っこのない町。隣近所の付き合いも薄い。 親父には岸和田に取引先があった。俺を連れてきたのは、挨拶回りのついでだろう。「ちょっと挨拶してくるわ、お前は祭り見とけ」と言って、親父は人混みに消えた。俺は一人になった。 巨大な地車が唸りを上げて坂道を駆け下りてくる。四トンの木の塊が、走っている。人の足で。その光景が、最初は頭で理解できなかった。 腹の底まで響く地鳴り。男たちの怒号。太鼓と笛が絡み合って、耳の奥がびりびりと痺れる。見物客の肩越しに覗き込んだ俺の目の前を、汗まみれの法被姿が次々と駆け抜けていった。 路地という路地から人が溢れ出していた。提灯の明かりが夕暮れの空を橙色に染め、どこかで焼きイカの匂いがする。子供たちの歓声。酒を回し飲みしながら気勢を上げる男たち。 俺の知っている「祭り」とは、何もかもが違った。江戸時代から続く城下町。三百年以上、親から子へ、子から孫へと祭りを受け継いできた町。だんじりのために命を張る。祭りのために一年を生きる。血が熱い。そういう町が、電車で三十分のところにあったなんて、知らなかった。 角を曲がる瞬間、地車が傾いだ。悲鳴のような歓声が上がる。綱を握る男たちが全身で踏ん張り、車輪が火花を散らして軋む。誰かが転んだ。それでも地車は止まらない。止まれないのだ。 「おい、危ないぞ!」 誰かが叫んだ。見物人の最前列にいた俺は、振り向いた瞬間、雪崩れ込んできた群衆に押し流された。押し潰されるように転がって、気づいたら路地裏の砂利の上に倒れていた。右の掌がじんじんと熱い。見れば、血が滲んでいた。 「ちょっと、あんた」 顔を上げると、屋台の赤い暖簾をくぐって、少女が駆け寄ってきた。 歳は俺と同じくらいか、少し下の女子中学生ぐらいか。色の白い、どこか翳りのある顔立ち。髪を一つに束ねて、紺の前掛けをしていた。屋台の娘だろう。りんご飴や綿菓子が並んでいる。 少女は俺の前にしゃがみ込んで、血の滲んだ掌を覗き込んだ。 「怪我してるやん。こっち来て」 少女は俺の腕を取って、屋台の裏手に連れて行った。祭りの喧騒が少し遠くなる。 少女は手際よく救急箱を開け、俺の掌を取った。細い指が、傷口を確かめるように動く。消毒液が沁みて、思わず顔をしかめた。 「我慢しい」 一通り手当てを終えると、少女は傍らに置いていた煙草の箱を手に取った。深い緑色の箱から一本抜き出して、おもむろに口にくわえた。 息が詰まった。 同い年くらいの女の子が、煙草を。俺の知っている世界には、そんな子はいなかった。和泉の住宅街、制服を着た同級生たち、親の目を気にしながら生きる毎日。その向こう側に、こんな世界があるのか。 不良なのだろうか。でも、さっきの手当ての丁寧さはなんだったのだろう。指先は優しくて、消毒液を塗る仕草にも気遣いがあった。そんな子が、平然と煙草に火をつけている。 見たことのない煙草だった。蓋には金色の鳥が描かれている。翼を大きく広げた、鷲のような——いや、違う。 「それ、何の煙草?」 声が、少し上ずった。 「コンドル」 少女は煙を吐きながら言った。その仕草があまりにも自然で、俺の戸惑いなど知らぬ顔だった。 「南米の葉っぱや。親父が仕入れてくる。珍しいやろ」 紫煙が、夕暮れの空に溶けていく。祭囃子が遠くで鳴っている。 俺は目を離せなくなっていた。不良だとか、育ちが悪いだとか、そんな言葉が頭をよぎる。よぎるのに、嫌悪感はなかった。むしろ、胸の奥がざわついた。俺の知らない世界を生きている少女。その翳りに、なぜか惹かれている自分がいた。 時間が止まったような気がした。 だんじりの喧騒も、人の波も、何もかもが遠のいて、この路地裏だけが世界から切り離されたみたいだった。 少女は煙草を灰皿に押し付けて、立ち上がった。 「ありがとう」 「ええよ。気ぃつけて帰りや」 それだけ言って、少女は屋台の表に戻っていった。 俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。包帯の巻かれた右手を、意味もなく握ったり開いたりしながら。 親父と合流したのは、それから三十分ほど後だった。 「おい、その手どないしたんや」 親父は俺の右手を見て眉を寄せた。 「人混みで転んで、ちょっと擦りむいた。屋台の人が手当てしてくれた」 「そうか。気ぃつけなあかんでぇ」 それ以上は聞かれなかった。親父は昼飯に連れていってくれた。岸和田城の近くの食堂で、うどんを食べた。午後は城の周りを歩いたり、商店街を冷やかしたりして過ごした。 でも、俺の頭の中にはずっと、あの少女の横顔があった。煙草の煙。蓮っ葉な口調。そして、包帯を巻く指の丁寧さ。 --- 夜になって、俺はそわそわしていた。 親父は俺の顔を見て言った。「今晩、取引先と話があるから、ちょっと出てくるわ。お前は祭りの最前列には立つなよ、昼間みたいなことになるで」 しめしめ、と思った。 心臓が跳ねた。親父がいなくなれば、あの子に会いに行ける。昼間からずっと、あの路地裏のことを考えていた。煙草を吸う横顔。包帯を巻いてくれた細い指。もう一度、会いたい。 親父が繁華街の方へ消えていくのを見送りながら、俺の足は既にうずいていた。行くしかない。今夜しかない。 岸和田の夜は、昼よりも熱い。提灯の明かりが路地を埋め尽くし、だんじりは夜曳きに入っていた。数百個の提灯で飾られた地車が、闘牛のような勢いで夜の町を駆け抜けていく。 「そーりゃ、そーりゃ」 掛け声が地響きのように轟き、火花が散り、男たちの汗と熱気が夜風に混じって立ち込めていた。 少女は相変わらず忙しそうに働いていた。りんご飴を渡し、釣り銭を数え、子供に綿菓子を手渡す。その合間に、時々コンドルに火をつける。 俺が突っ立っているのに気づいて、少女はちょっと笑った。 「あんた、まだおったん」 「祭り、見てたら」 「暇なんやな」 嫌味ではなかった。少女の目が、少しだけ柔らかくなった気がした。 「もうちょっとしたら休憩やねん。待っとき」 だから俺は待った。屋台の脇で、祭りの人波を眺めながら、少女が暖簾をくぐって出てくるのを待った。 「ほな、行こか」 少女は前掛けを外して、俺の横に並んだ。二人で夜店の並ぶ通りを歩いた。 岸和田の夜店は、どこか猥雑で、どこか懐かしい。射的があって、金魚すくいがあって、お面屋があった。型抜きの屋台では子供たちが真剣な顔で針を動かし、ヨーヨー釣りの水槽には色とりどりの風船が揺れていた。 どこからともなく焼きそばの匂いがして、提灯の明かりが少女の頬を照らしていた。 「あんた、どこの子?」 「和泉」 「ふうん。だんじり見に来たん」 「まあ」 他愛もない話をした。少女は大阪の南の方を転々としているらしい。テキ屋の仕事で、祭りがあれば出向く。学校には通ってないのだろうか。 「かわいそうとか、思わんといてな」 少女は先回りして言った。 「うちはこれでええねん。自由やし」 その声には、何度も同じことを言い慣れた響きがあった。かわいそうと言われるたびに、こう答えてきたのだろう。 射的の台には埃を被った景品が並んでいた。色褪せた招き猫、安物のぬいぐるみ、子供向けの玩具。遠くで祭り囃子が鳴っている。太鼓の音が、夜空に吸い込まれていくようだった。 「やってみ?」 少女が顎でコルク銃を示した。 俺は何も考えずにそれを手に取った。木の柄はざらついていて、祭りの夜の熱を吸い込んでいるようだった。 右手で握り、構えようとした瞬間、鋭い痛みが走った。息を呑んだ。怪我のことを、すっかり忘れていた。 少女の視線が俺の右手に落ちた。汚れた包帯を見ている。何も言わなかった。 気づけば彼女は俺の背後に回り込んでいた。射的台の横から、俺の真後ろへ。細い腕が伸びてきて、銃を握る俺の両手に重なった。 「力抜き」 耳元で囁かれた。 彼女の体温が背中に触れていた。コンドルの残り香が、汗と混じって鼻腔を満たした。 心臓が跳ねた。俺は息を止めていた。 彼女の指が俺の指に添えられ、狙いを定めた。右手の痛みが和らいでいく。彼女の手が、銃の重さを半分引き受けていた。 その時、背中に、柔らかいものが触れた。 息が止まった。意識がそこに吸い寄せられて、離れなくなった。少女の胸だ。薄い布越しに、確かな膨らみが背中に押しつけられている。俺は女と付き合ったことがない。こんなに近くで女の体を感じたのは、生まれて初めてだった。 耳まで熱くなるのが分かった。心臓が、銃の引き金を引くより前に暴発しそうだった。 彼女の呼吸が聞こえた。静かで、深い。俺は自分の呼吸をそれに合わせようとしたが、合わなかった。 二人の息が重なった。 「いくで」 パン、と乾いた音がした。 一拍の静寂。 招き猫が倒れた。右前足を挙げた、金色の招き猫だった。 少女が俺の腕から離れ、景品を受け取りに行った。戻ってきた彼女は、招き猫を子供のように両腕に抱えていた。 「ほら、当たったやん」 へへへ、と少女は照れたように笑った。得意そうなのに、どこかはにかんでいる。煙草焼けした声とは裏腹に、その笑い方だけは子供みたいだった。 俺は黙って彼女の手を取った。招き猫を抱えたまま、彼女は振り払わなかった。 夜風が吹いた。太鼓の音は止み、代わりにだんじりの軋む音が近づいてきていた。 どちらからともなく、歩き出していた。 祭りの人混みを避けるように、提灯の灯りが薄れる方へ。暗い方へ。誰もいない方へ。 何をするつもりなのか、俺自身にも分からなかった。いや、分かっていたのかもしれない。ただ、それを言葉にするのが怖かった。 少女も何も言わなかった。ただ、俺の手を握り返していた。その手が、少しだけ汗ばんでいた。 --- 神社の裏手に、人気のない場所があった。 岸城神社の境内を抜けて、鬱蒼とした木立の奥。石灯籠が苔むして、蝋燭の灯りすら届かない。祭りの喧騒は遠く、虫の声だけがやけに大きく聞こえた。 石段に並んで座って、遠くの囃子を聞いていた。 少女はまたコンドルに火をつけて、紫煙を夜空に吐いた。翼を広げた鳥のように、煙が風に流れていく。 「あんた、名前は」 「俺? 誠一」 「ふうん。誠一か」 少女は俺の名前を、噛みしめるように呟いた。 「うちは——」 名前を言いかけて、少女は口を閉じた。 「なんでもええわ。どうせ明日にはおらんし」 「明日?」 「祭り終わったら、次の場所に行くねん。テキ屋はそういうもんや」 怪盗みたいやな、と思った。祭りが終われば、煙のように消えてしまう。何も残さず、ただ去っていく。 少女がこちらを向いた。提灯の灯りが届かない暗がりで、その目だけがやけに光って見えた。 「なあ、誠一」 声が、少し掠れていた。 俺は少女の顔に近づいた。心臓が馬鹿みたいに鳴っていた。少女も目を閉じかけた——その時、コンドルの煙が鼻先を掠めた。 独特の、重く甘い匂い。南米の葉巻にも似た、異国の香り。 咄嗟に、顔を背けてしまった。 煙草の匂いが嫌だったわけじゃない。ただ、慣れなかっただけだ。十七の俺には、その匂いを受け入れる度量がなかった。あと数秒、我慢すればよかった。あと数秒、少女の目を見つめていればよかった。 でも、俺は顔を背けた。 少女の目が、一瞬で冷えた。 「……そう」 少女の手が、煙草を握りしめた。指が白くなるほど強く。 それから、ゆっくりと火を消した。いつもの仕草とは違う、乱暴な消し方だった。 「ほな、また」 少女は立ち上がって、石段を降りていった。振り返らなかった。 俺は追いかけられなかった。何が起きたのか分からないまま、ただ呆然と、少女の背中が闇に溶けていくのを見ていた。 どれくらいそこに座っていたのか分からない。気づいたら、祭りの喧騒も遠のいて、虫の声だけが響いていた。 親父を探して、居酒屋の前で合流した。酔った親父は上機嫌で、俺の顔色には気づかなかった。その夜は岸和田の旅館に泊まった。布団の中で、ずっと少女のことを考えていた。眠れなかった。 --- 翌日、祭りの最終日。親父は二日酔いで旅館に残ると言った。俺は一人で出かけた。 屋台のあった場所に行った。 何もなかった。 砂利の地面に、テキ屋がいた痕跡すら残っていなかった。まるで最初から何もなかったみたいに、ただの空き地があるだけだった。 怪盗だ、と思った。 あの少女は、俺の心だけを盗んで、消えてしまった。 --- 俺は親の期待にこたえる形で、地元では名門の大阪副都立大学を出て、和泉市役所に入った。窓口対応は丁寧だと言われた。上司の覚えもめでたく、同期の中では出世も早い方だった。 飲み会の二次会を断り、一人で家路についた。同僚たちの笑い声が背中で遠ざかる。翌朝、誰よりも早く出社して、机を拭いた。いつも通りの朝。いつも通りの俺。 昼食は決まった定食屋で、決まったメニューを頼んだ。冒険なんてしなかった。 休日は部屋で本を読むか、喫茶店でコーヒーを飲むか。一人で過ごすのが好きだった。居酒屋のガヤガヤより、静かな店のカウンター席。カラオケで騒ぐより、一人で散歩。そういう人間だった。 何も不満はないはずだった。 でも、どこか空虚だった。 二十代の終わり、職場で出会った女がいた。色白で、どこか翳りのある顔立ち。煙草を吸う姿が、あの少女に似ていた。三年付き合って、結婚の話も出た。式場の予約まで済ませた。 でも、違った。何かが、決定的に違った。 女が煙草に火をつけるたび、俺は別の誰かを探していた。女もそれに気づいていたのだろう。式の三ヶ月前に、向こうから別れを切り出された。 「あんたは自分に嘘ついてるわ。うちのこと見てへんやろ」 俺には女が何を言っているのか、よく分からなかった。俺は彼女を大切にしてきたつもりだったのに。 三十になる前に実家を出た。市役所から歩いて十分のマンションを買った。2LDK。独り身には広すぎる部屋だった。 その後も、何度か縁談があった。親も会社も、俺の結婚を心配した。見合いの席に何度も座った。相手は皆、申し分のない女性だった。家柄も良く、教養もあり、誰もが「良いお嬢さん」だと言った。でも、うまくいかなかった。 あの夜の感覚は、二度と訪れなかった。時間が止まるような、世界から切り離されるような、あの不思議な瞬間は。容姿だと思っていた。煙草を吸う姿が美しかったのだと、ずっと信じていた。だから似た女を求め続けた。でも、誰も—— 六十を過ぎて、俺は独り身だった。 定年を迎えた時、同僚たちは口を揃えて言った。「真面目に働いてきたのに、家庭がないのは寂しいな」と。 縁がなかっただけだ。俺は何も間違っていない。真面目に働いて、堅実に生きてきた。ただ、良い相手に巡り会えなかっただけだ。そう思っていた。 --- 六十七歳になった秋、久しぶりに岸和田に来た。 だんじりは変わらなかった。地車が唸りを上げ、男たちが怒号を上げ、町全体が脈打っている。五十年前と、何も変わっていない。 変わったのは俺だけだ。 膝が痛む。息が切れる。人混みを歩くのも億劫になった。路地裏の石畳も、提灯の明かりも、焼きイカの匂いも、すべてがあの頃のままなのに、俺だけが老いた。 祭りの端の方に、小さな屋台が出ていた。 りんご飴と、綿菓子。紺の暖簾。 足が止まった。 屋台の奥に、年老いた女がいた。白髪を一つに束ねて、皺の刻まれた手で釣り銭を数えている。その傍らに—— 見覚えのある箱があった。 深い緑色。金色の鳥。翼を大きく広げた、コンドル。 女の横顔に、確かに面影があった。五十年の歳月を経ても、消えない何かが。 俺は、息を呑んだ。 そして思わず、一歩踏み出した。 「あの」 女が顔を上げた。 俺と目が合った。 女の目が、俺を見た。確かに、俺を見た。 ——そして、通り過ぎた。 何の感慨もなく、ただの客を見るように、女の視線は俺を素通りしていった。 「いらっしゃい。何にしましょ」 営業用の声だった。五十年前の、あの声の面影すらない。 女は、俺を覚えていなかった。 当たり前だ。 女にとって俺は、五十年前の祭りの夜に擦れ違っただけの、名前も顔も思い出せない、数え切れない客の一人に過ぎなかった。 俺だけが、五十年間、あの夜を抱えて生きてきた。 俺だけが、あの瞬間に囚われ続けていた。 「……りんご飴、一つ」 声が掠れた。 女は手慣れた様子でりんご飴を取って、俺に差し出した。 「五百万円!」 女がへへへ、と笑った。 その顔を見た瞬間、俺は確信した。間違いない。五十年前の、あの少女だ。 いたずらっぽく笑う目元。蓮っ葉な冗談。あの夜、射的で招き猫を抱えて笑った、あの顔。 女は俺の顔を見て、また笑った。ただの客に向ける、愛想笑いだった。 俺は小銭を渡した。女の、皺の刻まれた指が、釣り銭を数える。五十年前、俺の掌に包帯を巻いてくれた、あの指。射的で俺の手を支えてくれた、あの指。 何も言わなかった。言えなかった。 俺は屋台の前を離れた。 りんご飴を持ったまま、人混みの中を歩いた。だんじりの地鳴りが、腹の底に響いている。五十年前と同じ音。五十年前と同じ匂い。 ふと、路地裏に目が留まった。 祭りの喧騒から少し離れた、人気のない場所に女はいた。屋台を誰かに任せて、休憩に出たのだろう。 女は壁にもたれて、空を見上げていた。その手には、見覚えのある箱があった。深い緑色。金色の鳥。翼を大きく広げた、コンドル。女が煙草に火をつけた。紫煙が、秋の空にゆっくりと立ち昇っていく。 「間違いない、あの時の・・・」 俺はその煙を目で追った。五十年前と同じ匂いが、風に乗って微かに届いた気がした。 あの夜は、もう戻らない。五十年という歳月は、あまりにも長すぎた。 「あっ」 はたと気づいた。 俺が惚れたのは、煙草を吸う少女の粋な少女の様子や容姿じゃなかったではないか? 怪我をした俺の手を取って、丁寧に包帯を巻いてくれた、あの優しさだったのではないか? 射的で俺が銃を握れないことに気づいて、何も言わずに後ろから手を添えてくれた、あの気遣いだった。「うちが支えたるから」と、当たり前のように助けてくれた、あの温かさだったのではないか? 怪我をした俺を、笑いもせず、責めもせず、ただ黙って支えてくれた少女。 招き猫を取った時、「うちの支えのおかげやで」と得意そうに笑った、あの顔。子供みたいに大事そうに抱えた、あの仕草。 「かわいそうとか、思わんといてな」と先回りして言った、あの強がり。 名前すら教えてくれなかったくせに、俺の名前だけは噛みしめるように呟いた、あの声だった。 五十年かけて追いかけていたものは、最初から間違っていた。 容姿に惹かれた——それは、勘違いだった。 俺が惚れたのは、あの少女自身だったのだ。見返りを求めない、押しつけがましくない、ただそこにある温かさ。五十年経って、ようやく分かった。あの夜、俺の胸を高鳴らせたのは、煙草の煙じゃない。俺を支えてくれた、あの細い指だった。 やっと気づいたがした。 自分も年寄りになったな、と苦笑した。しかし気づくのが、五十年遅かった。 今更、女に何を話せばいいのか分からない。名乗ったところで、向こうは覚えていないだろう。六十七歳になった老人の俺が、あの少女だった女に何を言え、何を求めるのか。馬鹿げている。年甲斐もない。恥ずかしい。 でも、俺は路地裏で煙草をふかす老女のもとへ歩き出していた。 「射的、一緒にやりませんか」 きょとんとした女の口元からは煙が漏れ、秋の空に溶けていった。 翼を広げたコンドルのように、どこまでも、どこまでも。 終劇

コメント

👻 謎の読者 - 2026-01-31 16:47

おおっと。

これもまた・・・物語に飲み込まれて、息をするのを忘れるような大作でした。
ひとりの男の人生を描き上げた作品ですね。それを貫いた少女との偶然の出会い。そのシーンが丁寧に描かれていることによって、物語全体が吸い付けられるように引き締まって感じられました。
最後も切ないながら、今度こそ、という感じもあって、救われる終わり方でした。良かったです。

さて、作者予想ですが、けにおさんかなー^^;

👻 謎の読者 - 2026-01-21 10:31

え~、神座(かむくら)大好きマンです♪

神座って、スープが癖になり、また行きたくなりますね。
本作は、味わい深い祭りや屋台の情景が描かれています。それを背景に、幼い頃のほろ苦い恋話。
こういったレトロ感満載で、心の揺れを描けるのは・・・・ずばり、作者を「茶屋」さんと予想します!