## 一、少女
奈良の古い家には、煙草の匂いが染みついていた。
父の吸う紫煙が、天井の木目を燻している。
「ユウタ、ご飯やで」
高壱早苗、十歳。
台所に立つと、流し台に背が届かない。踏み台を使う。
忙しく帰りの遅い両親のかわりに、弟に飯を食わせ、風呂に入れ、寝かしつける。
「姉ちゃん、将来なにになるん?」
「最強」
弟は目を丸くした。
「最強って?」
「誰にも負けへん人。誰にも頼らんでええ人。みんなを守れる人」
「へえ。姉ちゃん、なれるん?」
「なる。絶対なる」
早苗は弟の頭を撫でた。そして、最近テレビで聞いた歌を真似て叫んだ。
「私は最強おおおおお!」
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## 二、嘘
弟を寝かしつけてから、早苗の時間が始まる。
夜十時。
机に向かい、ノートを広げる。授業の復習、宿題、明日の予習。
どんなに忙しくても疲れていても、自身が納得できるまでやり通した。
日によっては、机でうつ伏せで朝まで寝てしまうこともあった。
「高壱、お前また一番か」
テストが返ってくるたび、同級生が目を丸くした。
「うちは普通やで。授業中にちょっと集中してるだけや」
嘘だった。誰にも見せなかった。
家では弟の世話を焼き、自分の自由時間が少ない中、夜中に必死で勉強していることを。
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高校3年の冬、受験シーズン。
早苗は努力の成果が出て、国公立大学である神戸大学と、東京の名門私大に受かった。
しかし、父が言った。
「ユウタの学費があるから、東京での私大なんて到底無理や」
母も言った。
「女の子やから、一人暮らしはさせられへん」
早苗は反論しなかった。弟を守ってきたのは自分だ。弟の学費を優先するのは、当たり前のことだった。
早苗は、自宅から通える国公立大学である神戸大学を選んだ。
奈良から神戸。片道三時間。往復六時間。
始発に乗る。電車の中で教科書を開く。
終電で帰る。座れたら、膝の上でノートを広げる。
六時間を、勉強時間に変えた。
誰も真似できない。でも、早苗にはそれしかなかった。
また、ある日、軽音楽部の先輩に呼び出された。
「うちのバンド、ドラムが抜けてん。お前歌うまいし、音感あるので、ドラムも叩けるんじゃないのか」
「そやな、できるやろうな」
「まじで!じゃあ頼むわ」
「・・・」
負けん気から、つい強がって嘘をついた。ドラムなんて、触ったこともない。
でも早苗は、嘘を本当にする女だった。
東灘の御影に、元プロのドラマー・藤井がいると聞いた。
翌日、豪邸の門の前で頭を下げた。
「弟子にしてください」
三日目。
スティックを握り直すと、皮が剥けた。
十日目。
包帯を巻いた上から叩く。白い布が赤く滲む。藤井がスティックを取り上げた。早苗の手を見た。何も言わず、返した。
「このままできんと、うちは嘘つきになる。本当にせなあかん」
一ヶ月後、早苗はステージに立っていた。客席の隅で、藤井が腕を組んで見ていた。小さく頷いた。
気合と根性で嘘を真実に変える。それが、高壱早苗という女の生き方だった。
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## 三、七変化
神戸大学を卒業した早苗は、松下政経塾に入った。
二百人が応募して、入れるのは五人。女性は早苗だけだった。
松下幸之助本人が問うた。
「君はなぜ政治家になりたいんや」
「誰にも頼らんでも生きていける国を作りたいからです」
松下は煙草に火をつけた。あの父と同じ、紫煙の匂い。
「政治家っちゅうもんはな、頭だけでもあかん。体力だけでもあかん。人脈だけでもあかん。綺麗ごとだけでもあかん。したたかすぎてもあかん。人情だけでもあかん。冷淡すぎてもあかん。いろんな能力を求められるんや。せやな・・・いわば役者や。その時その時で人を納得させる言動や立ち振る舞いが必要なんや。七変化や。若いうちは稽古や思うて、いろんな経験を積んで、吸収して、うまく化けれるようになりや」
松下は煙草の灰を落とした。
「しかし、最後にものを言うのは根性やで!」
松下は早苗の目を見て言った。
「お前にはそれがある」
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三年後、卒業の日。松下が早苗に言った。
「お前、どこまで行くつもりや」
「総理大臣」
早苗は即答した。松下は笑った。
「ほな、七変化の修行や。世界を見てこい」
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## 四、翼
松下の言葉が頭にあった。七変化しなければならない。
なら、まず世界を見なければならない。
早苗は、アメリカへ飛んだ。
連邦議会のフェローとして、ワシントンD.C.に赴任した。
議会図書館の天井は、高すぎた。
早苗の声が、響かない。自分が小さく感じた。
イェール出身、ハーバード出身のエリートたちが、早苗を横目で見た。
「日本から来たの? どこの大学?」
「神戸大学です」
「……ふーん」
その目が、全てを物語っていた。
会議で発言できなかった。議論についていけなかった。
夜、アパートに帰って、泣いた。
うちは最強になるんやなかったんか。
こんなところで、負けてる場合やないやろ。
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休暇を取って、南米へ飛んだ。
ペルー。アンデス山脈。
標高四千メートル。空気が薄い。息をするだけで、胸が苦しかった。
「ここは、コンドルの聖地です」
見上げると、巨大な鳥が飛んでいた。
翼を広げると、三メートルはあった。黒い羽。白い首飾り。
コンドルは、羽ばたかなかった。
風を読んで、上昇気流に乗って、悠然と空を舞っていた。
早苗は、息を呑んだ。
あの鳥は、力任せに飛んでいない。
風を味方につけている。環境を利用している。
だから、あんなに高く、あんなに遠くまで飛べるのだ。
政治も同じではないか。
力だけでは、勝てない。風を読まなければ。人を味方につけなければ。
「私も、あの空を飛んだる」
声に出して、そう言った。
早苗の胸には、炎が灯っていた。
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帰国後、早苗は七変化の修行を続けた。
次の顔は、ニュースキャスター。人前で話す訓練だった。
三年間、テレビ局のスタジオに立った。
赤い「ON AIR」のランプが点く。
「こんばんは。〇時のニュースです」
その一声で、スタジオの空気が変わった。
カメラの向こうに、百万人の視聴者がいる。
人を惹きつける能力。顔の表情。声のトーン。間の取り方。
これが、後に政治家になった時の最大の武器になった。
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一九九二年。参議院選挙に無所属で出馬した。
地盤なし。後援会なし。派閥なし。金なし。あるのは根性だけだった。
結果は、落選。
「高壱さん、あんた無茶や。地盤もないのに国会議員なんて」
「うちは諦めへん。嘘を本当にする女や」
翌年、再び挑戦した。今度は衆議院選挙。
奈良中をドサ回りした。朝五時から駅前に立った。商店街を歩いて一軒一軒頭を下げた。町内会に顔を出し、老人会で話を聞き、青年団の飲み会にも付き合った。
名前を覚えてもらうまで、何度でも足を運んだ。
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## 五、同期
一九九三年。早苗は衆議院議員に初当選した。
無所属のまま、地盤のない土地で、根性だけで勝ち取った議席だった。
同期に、安部晋三がいた。
赤坂の裏路地。看板もない小さな焼き鳥屋。カウンターだけの店に、二人は並んで座った。
「ここなら誰にも聞かれへん。政治家は壁に耳ありやからな」
焼き鳥が運ばれてきた。煙が立ち上る。
「高壱さん、将来どうなりたい?」
「総理大臣」
早苗は即答した。安部は目を丸くした。そして、大きく笑った。
「大きくでたな。女で総理は、前例がないぞ」
「前例がないから、やるんや」
安部はビールを一気に飲み干した。
「……実も俺もそれを目指してる。爺さんを超えたい」
「安部さんもかい! ほな、うちら仲間ちゃうな、ライバルやん!」
二人は目を合わせた。
安部が笑った。早苗も笑った。
焼き鳥が、冷めていた。
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奈良に里帰りした際、弟のユウタが一人の男を連れてきた。
「姉ちゃん、こいつ、山本拓。俺の大学の先輩で、今は商社に勤めている。」
拓は早苗より三つ年上。穏やかな目をした男だった。
「弟さんから聞きましたよ。『私はさいきょおおお!』って叫んでたって」
早苗は顔を赤くした。ユウタが余計なことを。
「……昔の話や」
拓は笑った。
「最強、なってくださいね」
二年後、二人は結婚した。
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## 六、狐
二〇〇六年。安部晋三は総理大臣に就任した。
副総理には、浅生太朗が就いた。
浅生は、安部と同じ保守派の重鎮。しかし二人の間には、微妙な緊張があった。
お互いを必要としながら、お互いを警戒している。政界とは、そういう世界だった。
浅生には野望があった。
浅生は葉巻に火をつけた。
総理の椅子は一度座った。あの椅子の硬さはもう知っている。
今欲しいのは、その椅子ではない。
椅子に座る者を背後から操縦することだ。
そのためには有能な駒が必要だった。
派閥を持たず、自分がいなければ総理になれない駒。
国民の受けがよく、華ががある駒。
マスコミや野党や諸外国に対し、舐められず毅然とした対応ができる駒。
浅生は、早苗のことを見ていた。
「高壱早苗か。ちょうどいい女だな」
派閥を持たない。しかし野心はある。そして、安部の親友。
この女なら、自分の傀儡にできる。自分が院政を敷くには、うってつけの駒だ。
二〇一二年。安部晋三は再び総理大臣に返り咲いた。
今度は長期政権。浅生は副総理兼財務大臣として、八年近く政権中枢に座り続けた。
浅生は着々と布石を打った。
早苗を総務大臣に抜擢させたのも、浅生の後押しがあったからだ。
「高壱を閣僚にしろ。あの女は根性がある。それに、派閥がない」
派閥がない。それは、操りやすいということ。
浅生は早苗を「次の駒」として育てていた。安部の後に据える、自分の傀儡として。
早苗もそれを知っていた。知った上で、この狐の懐に入る。
利用されるなら、利用し返せばいい。
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## 七、夢の続き
二〇二〇年、安部は体を壊して辞任した。
浅生の絵図では、ここで早苗を総理にするはずだった。
しかし、そうはならなかった。
後任には須賀義秀が就いた。官房長官として安部を支えた男。しかし浅生から見れば、予定外の人事だった。
須賀は一年で失速した。コロナ対応の迷走、オリンピック強行開催への批判。支持率は七割から三割を切るまで急落し、総裁選への出馬すら断念した。
浅生は歯がゆかった。だから言ったのに。早苗にしておけばよかったのに。
二〇二一年、岸多文男が総裁選に勝利。早苗は三位に終わった。
浅生は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
岸多は自分の言うことを聞かない。宏池会という独自の派閥を持っている。
須賀も岸多も、浅生の駒ではなかった。
自分の描いた絵図が、二度も崩れた。
自分の言うことを聞く総理が欲しい。
浅生の頭に、早苗の顔が浮かんだ。
「次こそ、あの女だ」
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二〇二二年七月八日。奈良。早苗の故郷。
大和西大寺駅前で街頭演説中だった安部晋三が、背後から銃撃された。
早苗は国会議事堂で、その報せを聞いた。
「嘘や……」
床に手をついた。秘書が駆け寄る声が、遠い。
窓の外を見た。街頭演説用のマイクスタンドが、風に揺れていた。
でも。
葬儀の日、早苗は棺の前で誓った。
「晋三さん。うちは必ず、あの場所に立ちます」
何度でも立ち上がる。
「私は最強やから」
涙を拭いて、早苗は立ち上がった。
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## 八、怪盗
二〇二四年の総裁選。浅生は河埜太朗を支援した後、早苗に乗り換えた。
しかし、石場繁に敗れた。
浅生は明らかに不満だった。石場は自分の言うことを聞かない。
早苗は悔しかった。拳を握りしめた。
その夜、浅生から電話があった。
「早苗、落ち込んでる場合じゃないよ」
「……浅生さん」
「石場は長くもたんよ。あの男にはカリスマがない。党内をまとめる力もない。次の政権は短命だ」
浅生の声は冷静だった。
「お前、準備しとけ。次こそ、お前の番だ」
早苗は受話器を握りしめた。
「私は負けへん。何度でも、立ち上がる」
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二〇二五年。浅生の予言は的中した。
石場政権は支持率が低迷し、党内から退陣論が噴出した。
そして参議院選で自民党は大敗した。
浅生は早苗を呼び出した。
議員会館の、浅生の部屋。葉巻の匂いが充満していた。
「あいつのせいで大負けだ。しかしなあ、高壱。お前にとってはまたとない好機だぞ。今こそ、自分の手で総理の座を奪い取れ! わしも力を貸してやる」
浅生の目が、光っていた。権力への執着。野望。
早苗は笑った。
「うちは怪盗や。総理の座を盗んだる」
浅生の目が、さらに光った。
この男は、傀儡を欲しがっている。自分の言うことを聞く総理を。
早苗はそれを知っていた。知った上で、この狐と手を組む。
利用されるなら、利用し返せばいい。
どちらが狐で、どちらが狸か。それは、これから分かる。
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九月。参議院選挙大敗の責任を取る形で、石場は首相の辞任表明をした。
次の総裁選が始まった。
高壱早苗、林芳雅、小泉新次郎の三つ巴。
世論調査では小泉が圧倒的に優勢だった。若さ、知名度、発信力。メディアは「小泉新次郎、圧勝か」と書き立てた。
しかし、浅生は冷笑した。
「小泉? 話にならんよ」
小泉の演説がテレビに映っていた。
浅生は葉巻を消した。火がまだ半分残っていた。
「駄目だ」
それだけ言って、立ち上がった。
浅生は派閥の領袖たちを一人一人説得した。唯一残った自分の派閥を使い、裏で票を固めた。
林陣営の一部を切り崩し、早苗に流した。
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決選投票の日。
早苗は、控え室で一人だった。
胸が、痛いほど鳴っていた。
手が、震えていた。
今まで、何度も負けてきた。
一九九二年の参院選。二〇二一年の総裁選。二〇二四年の総裁選。
また、負けるんやないか。
また、届かへんのやないか。
目を閉じた。
南米で見たコンドルを思い出した。悠然と空を舞う、あの巨大な鳥。
風を読め。人を味方につけろ。
力任せに羽ばたくな。
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「高壱早苗、三百十二票。小泉新次郎、百九十四票」
メディアは驚いた。世論調査を覆す大逆転。
しかし、それは浅生の力だった。
怪盗作戦は成功した。
十二月、皇居。
認証式を終え、早苗は長い廊下を歩いた。
足音が、石畳に響いた。
この廊下を、女が一人で歩くのは初めてだった。
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## 九、宣戦布告
総理に就任して一週間後。
「台湾有事は、日本の存立危機事態となりうる」
中国外務省は反発した。
「内政干渉だ。日本は歴史を反省せよ」
早苗は動じなかった。
「反省すべきは、現在進行形で侵略を行っている国の方やろ」
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## 十、最強
その夜、早苗は公邸に戻った。夫の拓が待っていた。
「なあ、拓。うち、こわいねん」
拓は早苗の手を握った。
「お前、言うてたやろ。『私はさいきょおおお!』って。やったれ」
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窓の外には、東京の夜景が広がっていた。
少女は総理大臣になった。
しかし、物語はまだ終わらない。
アメリカにはトランプがいる。
中国には習近平がいる。
背後には、利用しようとする魑魅魍魎がいる。
副総裁には浅生が就いた。幹事長にも財務大臣にも、浅生派の人間が並んだ。
メディアは「第二次浅生政権」と揶揄した。
閣議で何かを決めようとすると、浅生が横槍を入れる。
思うように舵が切れない。自分の船なのに、自分で操縦できない。
窓に映る自分の顔を見た。
十歳の少女が、そこにいた。
踏み台を使って台所に立っていた、あの少女。
その隣には、小さな弟がいた。「姉ちゃん、最強ってなに?」と聞いていた、あの弟。
「私は最強おおおおお」
声に出さず、唇だけが動いた。
---
(了)
コメント
おおっと。
限りなく実在しそうな現代日本とその代表(らしき人物)を伝記風に描いている作品でしたね。
文字数を感じさせない軽快なテンポで進んでいく物語は、読者を飽きさせない工夫を感じます。
最後は少し胸の熱くなるような、溜めも用意されていて、グッとくる終わり方でした。
しかし、現実世界では選挙も始まることになっており、ますます危ない作品へとパワーアップした感じがします^^;
この作品は、けにおさんの作で間違いないでしょう^^;