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氷川丸という名の船が、神奈川の港に係留されている。
かつて横浜とシアトルを繋いだその船は、今は現役を引き、公園の隣に鎮座して、町の趨勢を見守っている。
かつて日本一の高さを誇った塔の足元で今日も船が大桟橋に留まる。
少し前、このあたりにはたくさんの桑の畑があった。絹をしまう倉庫があった。
もっと昔には、そこは海の底だった。
未来のことを、船は知らない。
「神奈川ってどうなの」
電話の向こうでいとこのマコが言った。
「何が」
「住みやすい?」
「何を藪から棒に」
「引っ越そうかなって」
冬の土曜日の事だった。
「マコはどこにいるんだっけ。埼玉だっけ」
「そ」
「何かあったのか?」
「洗濯物が干せなくてね」
「なにゆえ」
「ニュースとか見てない? 埼玉の日照量が激減してるって聞いてない?」
「ないなあ」
「毎日分厚い雲が垂れこめてて暗いんだよ。昼でも夜みたいなんだ」
針のように細いものを鉄骨みたいに太く言うやつ。そう言う性格であることを思い出す。
「大げさな」
「ほんとだよ。日光を通さない厚い雲がもう30日も停滞してるんだから」
ほんとかよ、と思いながらスマホを取り出す。
ネットで天気図を見ると確かに埼玉一帯が雲に覆われている。
「この冬たまたまそうなったってだけじゃないの」
「それだけじゃなくてさ」
「うん」
「うちの近所に空き地があるんだ」
「はあ」
「多分君が思ってるよりも千倍は大きな空き地。市役所のそばにあるんだけどさ、ほんと、市街地にあるのが信じられないくらい大きいんだよ。ほとんど建物が建ってなくて草が生えてる。で、そこに何基か謎のアンテナがあるんだよね」
「マコ。陰謀論はやめとけ。アンテナじゃ気象は操れない」
「あたしが信じてるわけじゃないよ。問題は、それを信じてる人たちがいるってことなんだ。最近は駅前まで出張ってきてさ『天候操作を止めさせましょう』って叫んでるんだ」
「それで引っ越しか」
「あと、毎年のように人が出て行くんだよ、うちの市。さすがにちょっと、このままでいいのかなって」
「で、神奈川を考えてる」
「実際どうなの。みー君がいるのって海の近くだっけ」
あー、と意味のないことを言いながら、テーブルに手を伸ばし、煙草を取る。
「最近は塩害が酷い」
「塩害? 畑でもやってるの?」
「潮風で建物が傷むんだよ。最近は特にひどい。きちんと対策されてるはずの建物にもダメージが入ってる。しかも原因不明ときた。風向きが変わったとか、海の成分が変わったとかいう話もあるが、どうもしっくりこない」
「そんなにひどいの」
「でもまあ、外壁がちょっと派手に痛むだけだ。塩害は」
「それだけじゃないんだね」
「2週間くらい前かな。部屋で寝てたらチャイムが鳴ったんだ。出てみると同じアパートの、2階上に住むおっさんでさ。なんだろう、さすがに騒音じゃないよなと思ってたら、通風孔のフィルターを渡されたんだ」
「通風孔? どこの?」
「この部屋の。ここ1Kなんだけどさ、壁に換気用の通風孔があるんだよ。通風孔って言ってもフィルターとふたがあるから虫とかは入ってこないんだけど」
「ふうん」
「なんでフィルターなんか? って聞いたらこう言ったんだよ。『通風孔からナノマシンが侵入すると、建材が破壊されてしまいます。従来のものよりも高性能で、ナノマシンも遮断できるフィルターです。ご活用ください』」
「ナノマシン……?」
「極小の機械だ。顕微鏡でなきゃ見えないくらいの」
「そんなものが建物を破壊できるの?」
「むりだろうな。というか、建物を破壊しつつ、それで得た材料で自己繁殖する機械なんて。そんなの実用化できたらノーベル賞が速達されてくるわ」
「今何の話してるの?」
「塩害の話をしてる。『政府が塩害ってことにしようとしている現象の原因は、ナノマシンなのです』って言うんだよ、そのおっさんが。で、そいつ一人の妄想じゃない。信じる人が増えつつある」
マコは言葉を失う。
「そしてこの話には続きがある」
「……みー君ってさあ、まだSF小説書いてるの?」
「まだってなんだよ」
「中学の頃書いてたじゃん」
「それならマコだって書いてただろ、イケメンのさ、」
おほん、とマコが咳払いする。
「黒歴史に触れるのは止めよう」
「作り話を作って騙しあってたのはガキの頃の話だろ。いまさらそんな真似しねえよ」
「ごめん。でも、あんまりに信じられなくて」
「それを言ったらそっちの話も大概だろ。30日も曇っていて、夜みたいに暗いなんってさ」
「嘘じゃないんだけどなー。で、フィルターをくれたおじさんがどうしたの?」
「一昨日そのおっさんが来たんだ。『この前お渡ししたフィルターは非常に高性能で、だから非常に高価なのです。私は特別な販路を使って皆さんのための分を買っているのですが、できれば皆さんにも費用の一部をご負担いただきたく。5000円、いえ、4000円で結構です』」
「払ったの?」
「ばかいえ。未開封のまま持ってたから持って帰れって言ったら逃げてったよ。後で調べたらなんてことはない。普通の交換用フィルターだ。2枚で880円」
電話越しに深いため息が聞こえた。
「どこもおんなじなのかな。訳の分からない人たちがいるって意味では」
「まあ、一部ではあるだろうが」
「増えてる気がする。昔はこんなこと起こらなかった」
「おいおい、昔は良かったなんていう歳でもないだろう。40を超えてからにしろ。そういうのは」
電話の向こうで、いとこがひざを抱えている。
そんな想像をした。
どうして俺たちはこんな陰気な話をしてるんだ。
15年くらい前は、相手を騙すための作り話をつくることしか考えてなかったのに。
「ってかマコ、仕事は?」
「3月末で契約打ち切り。3年間同じところにいちゃいけないって決まりだから、派遣労働者は」
「そんなルールあるのか? うちの会社には7年くらいいる人がいるけれど」
「あー、たぶんその人、無期雇用だね」
「いや? 派遣契約は3ヶ月ごとに更新してる」
すると乾いた笑いが聞こえた。
「そうだけどそうじゃなくて……説明するとしたら日が暮れちゃうね」
「3か月の契約は有期だろ?」
「派遣元との雇用契約が無期で、みー君の会社との労働者派遣契約が有期なんだ」
「違うと思う。その人、来年定年退職らしいから、有期雇用契約だよ」
あっはっはっは、とマコが笑った。
「定年まで勤められるってことはやっぱり無期だ。ねえ、意味わかんないよね。こういう説明ばっかりさせられてたんだ。こういう、狂った説明をさ」
自棄みたいに笑った後、マコがため息をつく。
つられて息を吐く。煙草の煙があたりに散って消えた。
「あたしはどうしたらいいんですかね。賢いまー君」ついうっかりというように漏らしてから、マコは慌てておどけた口調を付け足した。照れ隠しみたいに。「スキルもチートもないんですよ。特技もキャラもない。やりたいことすら。モブキャラだ。クエスト目標がわかんない」
「狂った説明をすることはできるんだろ」
「それは特技に含めていいんですかね」
「国語は得意だと言えるだろ」
「子供の頃なら美徳なんだろうけどさ。だめよ。正社員化の交渉もできないんだから」
「マコ、日光に当たってないんだろう? それでちょっと落ち込んでるだけだって」
「ね? だから引っ越すべきでしょう?」
「あー……」
じゃあこっち来るか? と言いかけて、止める。
親戚とはいえ、さすがに1Kで異性と同居する事は気が引ける。
言ったとして来ないだろう。マコは昔から俺の提案なんて聞きやしなかった。いつも変なことを思いついて変な方に引っ張っていくのはマコの方だった。
さすがにこのあたりで元気になってくれないと、困る。
窓の方を見やると、雑に閉めたカーテンの隙間から夕時の光が差し込んでいる。
真っ暗になる直前の、赤い光。
「らしくないじゃないですか、桑島麻子さん」煙草を灰皿に押し付けて、言う。「あなた仙女なんでしょ」
がばっ、と身を起こすのが電話越しに聞こえた。
「その話まだ覚えてたの?」
顔を赤くしたいとこの姿が目に浮かんだ。
「忘れられるかよ。『あたしの本当の名前は麻子じゃなくて麻姑(マコ)って書くんだよ。麻姑は中国に出てくる仙女ででものすごい美人で長生きなんだ』って言ってただろ、マコ」
「黒歴史ほじくり返すのやめてね」
「『あたしが生きている間にね、桑の畑が海になって、また陸になる。それを三度繰り返す。そのくらい長生きするの』。桑畑を見たことあんのか、って聞いたときのマコの顔も覚えてる」
ぼすん、と何か柔らかいものが壁に当たるのが聞こえた。
「中学生の頃のことだから。今そんなこと思ってないから」
「いいじゃないか。しおらしいよりずっといいよ。そうだ、また書けばいい」
「何を藪から棒に」
「大長編書いてたよな。主人公の少女が怪盗にさらわれて、そのうちに惹かれていって」
「書いてない! 全部消した!」
「もったいないなあ。コンドルを追って南米に行った話あっただろ。あれは好きだった」
「そんなの書いたっけ……」
「また書けばいい」
「書いてどうするの。いとこ一人に嗤われるだけでしょ」
「人一人笑わせられられたら立派だと思うけどな」
「……書いたら読む? 嗤わない?」
「笑うかは読んでから決める」
すう、と、電話口の向こうで息を呑むのが聞こえた。いとこは言った。
「だったらみー君も書いて」
「は?」
「私がみー君の小説を読んで笑ってやるから。そしたらフェアでしょ」
「読むだけでいいよ。俺、今超忙しい。引っ越しするかもしれないし」
「奇遇だね。私も引っ越しを考えてるんだ」
「どうしてこんな話になったんだ」
「それにね、あなた1つ勘違いしてる」
「何を?」
「そうでんへきかいは長生きって意味じゃない」
「そうでんへきかい?」
「桑の田に碧い海と書いて桑田碧海。桑の畑が青々とした海に変わること」
「仙女の話か」
「あれってね、世の中の移り変わりが激しいことを意味する言葉だから」
「はあ」
「これをお題にしよう」
「は……はあ!?」
決まりだ決まり、と言ってマコがはしゃぎだした。こうなるともう人の話を聞かない。
「言ったからには書けよな」
「みー君こそ。半年後。半年後が締め切りだから」
「小説かあ」
「面白いやつ書いてね。絶対見せてね。読ませてくれなきゃ怒るから」
「厄介なことになったなあ」
「しおらしいよりはずっといいでしょ?」
「ちょっとしおらしくなってもいいけどな。どうだ、こっちに来て潮風にふかれてみないか」
「遠慮しておく。新作の構想に忙しいから」
「減らず口」
あはは、といとこが笑う。声に出して笑って、それからぽつりとこう言った。
「嘘にしないでね、この話」
俺たちは電話を終えた。
窓の外はすっかり日が暮れていた。
たくさんのビルに塞がれているから、横浜の海は見えない。
昔ここのあたりには桑の畑があった。
蚕を育てる人達がいて、絹を運ぶ列車が走っていた。
もっと昔には、ここは海の底だった。
コメント
おおっと。
「桑田碧海」・・・知らない言葉でした。かっこいいですね~。
その言葉のかっこよさを裏切らない、読み応えのある物語でした。
世界が人も環境もなにもかもおかしくなっていく予感のようなものが会話劇だけで、描かれるさまが見事でした。
>「また書けばいい」 や、 「ノーベル賞が速達されてくるわ」
といった印象的な言葉が散りばめられた傑作でした。
作者は誰だろうなーー^^; 茶屋さんかなーー^^;