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金沢の静寂

一 白鳥路 村山静子が金沢に着いたのは、二月の最初の土曜の昼であった。奈良市役所には、月曜と火曜の休暇を申し出ていた。土日を挟んで三泊四日の旅であった。 朝、近鉄奈良駅で特急に乗った。京都でサンダーバードに乗り換えると、湖西線の車窓には、薄く凍った湖が、しばらく続いた。雪が、湖の面に降っては消えた。 敦賀で、北陸新幹線に乗り換えた。トンネルを抜けるたびに、車窓の白さが深くなっていった。 金沢駅の鼓門を出ると、雪が降っていた。タクシーは、香林坊を抜け、白鳥路ホテルの前で、止まった。 ホテルは、兼六園の杜の脇に立っていた。古い建物であった。ロビーには、ステンドグラスから青と紅の光が差していた。チェックインの時刻には早すぎた。静子は、フロントに鞄を預けた。手袋も、鞄の中に押し込んだ。 静子は、目立たない女であった。学生の頃から、教室の隅で生きてきた。職場でも、誰よりも静かに席に着き、静かに退勤した。波風を立てないこと、それが静子の生き方であった。 ホテルを出て、香林坊の方へ歩いた。加賀麩の老舗、不室屋に入った。宝の麩の吸物が、漆の椀に運ばれてきた。湯を注ぐと、椀の底で、小さな麩が、花のように開いた。麩は、湯の温度のまま、口の中で溶けた。 二 兼六園 昼下がり、静子は桂坂口から兼六園に入った。雪は、まだ降り続いていた。園の中は、観光客がまばらであった。 唐崎松の前で、静子は立ち止まった。雪吊りの縄が、松の枝を放射状に張り、雪を受けていた。風が吹くと、縄に積もった雪が、ふっと、こぼれ落ちた。 霞ヶ池の畔に、徽軫灯籠が、ひっそりと立っていた。錦鯉が、灰色の水の下を、ゆっくりと、過ぎていった。 ベンチに、静子は腰を下ろした。雪が、肩に積もった。 * 配属されて、ひと月ほどが経った頃であった。 ある日、静子は、文化祭の予算書類に、誤った数字を書いて課長に提出してしまった。課長が、静子の机の前に立った。 「村山さん、これ、何や」 村山静子は、立ち上がった。声が出なかった。 田崎係長が、課長の前に出た。 「すみません、私の確認漏れです」 田崎は、頭を下げた。課長は、田崎の顔を見て、それから、静子を見た。 「気をつけてや」 課長は、それだけ言って、戻った。 田崎は、静子に向かって、軽く笑った。 「うちの課長、数字にはめっぽううるさいからな」 短く言って、自分の席に戻った。 その夜、残業をしながら、静子は田崎の背中を、ときおり見た。書類に向かう田崎の横顔に、蛍光灯の光が当たっていた。 三 浅野川 兼六園を出て、静子は東へ歩いた。石川門を抜け、坂を下りた。古い家並みが続いた。屋根の雪が、軒先から、ひっそりと落ちた。 橋場町の交差点を渡ると、川の音が聞こえてきた。 梅ノ橋の上に、静子は立っていた。空は低く垂れて、雪が降りそうで降らなかった。川の水は、午後の遅い光を吸って、灰色に見えた。 静子という名は、母が付けたものであった。世間で波風を立てず静かに生きていくように、と。 橋を渡ってから、静子は川沿いの道を上流に向かって歩いた。水の音だけが、静子の足音と並んで進んでいた。 水の音を聞きながら、静子は十年前の春のことを思い出していた。 * 市役所文化振興課に配属されたのは、二十四歳の春であった。田崎正樹は、その課の係長で、三十六であった。 歓迎会の席で、静子は田崎の前に座って、瓶ビールを差し出した。 「村山さん、よろしくな。困ったら、いつでも聞いてくれ」 田崎は、笑った。それから、隣の上司に話を移した。 歓迎会の夜以降、田崎は仕事の合間に、静子に声をかけてきた。「お前、こういう細かい仕事、丁寧やな」 田崎は、書類から目を上げずに、独り言のように言った。 「以前、間違った書類を課長に渡して怒られて以来、注意しています」 静子は、小声で答えた。 「ああ、あの時な……」 「いや、ほめとんねん。本気で」 田崎は、ペンを止めて、静子の顔を、少しの間、見た。それから、また書類に目を落とした。 頼り甲斐があり、それでいて嫌味のない田崎係長を、静子は尊敬した。屈託のない笑顔と、後輩の面倒見のよさに、次第に惹かれるようになった。 配属されてから二、三ヶ月が経った頃、視察を終えた帰り道、田崎が、自分から子供の話をした。父親の顔をして、笑いながら話した。静子は、その話を、長く聞いていた。 田崎が結婚していて、幼稚園に通う子供がいることを聞いた。運動会やお遊戯会の話、子供を風呂に入れる話。子供はそのとき、小学校に上がる前であった。 静子は、その田崎を、家庭的で誠実な人だと思った。 四 主計町 浅野川を後に、静子は主計町の細い路地に入った。日が落ちかけていた。茶屋の格子戸が、暮色の中に並んでいた。軒灯が、ひとつ、ふたつと、点り始めていた。三味の音が、どこからか、低く流れて、消えた。静子の息が、白く昇った。 * 六月の終わりであった。秋に控えた奈良市民文化祭の準備で、文化振興課は連日残業が続いていた。その日の夕方、田崎は、文化祭のチラシ案の取りまとめを、今日中に仕上げてほしい、と静子に頼んだ。 七時半を過ぎ、課の他の職員もいなくなった頃、田崎は静子の机の前に、軽く腰を下ろした。 「悪いな、こんな時間まで付き合わせて。お礼に、何か食べに行こか。腹減ったやろ。奢るわ」 静子は、すぐには答えなかった。顔を上げた。田崎は、静子の答えを待っていた。仕事の時のきびきびした顔ではなかった。 「……はい」 静子の声は、思っていたより、小さかった。 近くの居酒屋であった。田崎はビールを飲み、静子も付き合った。最初の一杯で頬が赤くなった。 「村山さん、無理してへんか」 「あんまり、飲んだことないんです」 「ええよ、もう。無理して飲まんでも」 田崎は、優しく言った。けれども、静子のグラスにビールを注ぎ足す手は、止まらなかった。静子は、注がれれば、飲んだ。尊敬する田崎さんと食事をしお酒が飲めることが光栄であった。 「子供は、可愛い盛りでな。先週も、肩車してくれってせがまれて、肩が壊れるか、思った」 田崎は、グラスを傾けた。それから、少しの間を置いて、独り言のように続けた。 「嫁さんとは、最近、子供のことくらいしか、喋らんけどな」 田崎の声に、ほんの少し、苦みが混じった。それから、また、当たり障りのない話に戻った。 田崎の目が、ときおり、静子の頬を見た。静子は、田崎の視線に、気づきながら、気づかないふりをした。 九時を回った頃、田崎は伝票を引き寄せた。 「送って行くわ。一人で帰らせるの、心配やしな」 タクシーをひろい、田崎が先にはいり、静子が後にのった。車の中、田崎の手が、シートの上で、静子の手のすぐ近くにあった。触れてはいなかった。けれども、静子は、その手を意識し続けた。 家の前で、タクシーが止まった。田崎は、降りる素振りを見せなかった。窓の外を見て、夜の街灯を眺めていた。 「ちょっと酒に酔ったわ。頭痛いわ」 田崎の顔は、街灯の光に青白かった。 「うちで休んでいきますか?」 静子は、自分から言った。 「助かるが、家にはご両親がいるんじゃないのか?」 「私一人暮らしです。お茶くらい出しますよ」 「ほな、ちょっとだけ」 田崎は、静子の家に上がった。 玄関で靴を揃えて、田崎は部屋に上がった。狭い1DKであった。田崎は、静子に促されるまで、座らなかった。静子は、お茶を入れた。手が震えた。 田崎は、両手で湯のみを受け取った。 「俺な、村山さん。お前のことが好きやねん」 田崎は、静子の目を、まっすぐ見ていた。 田崎は、身を乗り出して、静子の腕を引いた。 静子は、息を呑んだ。咄嗟に、田崎の胸を押した。 「係長、困ります」 静子は、田崎の腕の中で、身をよじった。けれども、田崎の腕は、ほどけなかった。 静子は、顔を上げた。田崎の目は、血走っていた。仕事の時の凛々しい目とは、違っていた。半年のあいだ、机の隣で見ていた人の、本気の目であった。 静子は抵抗することをやめ、田崎に身を預けた。 * 田崎は静子の頭を、右腕からそっと外して、枕に戻し、起き上がった。 「煙草吸っていいかな? もちろん、換気扇の下で吸うから」 静子は、軽く頷いた。 田崎は、ワイシャツのポケットから煙草を取り出した。台所の換気扇の下へ歩いた。マッチの音が、暗い部屋に短く立った。煙が、換気扇の方へ、ゆっくりと吸い込まれていった。田崎は、ひと仕事を終えた後のように、美味そうに煙草吸っていた。 十一時近くなって、田崎は起きた。 「悪いな、行くわ」 「大丈夫なの、私と、こんなことになって……」 「大丈夫や。心配いらん」 田崎は、静子の頬に、軽く手を当てた。 「またな」 田崎が出ていった後、静子はベッドの中で、長く起きていた。眠れなかった。半年のあいだ、机の隣で見ていた人が、たった今、自分のベッドにいた。 静子は、田崎の残した枕の匂いを、嗅いだ。煙草と、男の匂いがした。 五 暗がり坂 静子は主計町の路地を抜けて、坂道へと歩を進めた。暗がり坂と呼ばれる、急な石段であった。両側を古い壁に挟まれて、昼でも薄暗かった。中ほどまで来て、静子は立ち止まった。 立ち止まったとき、静子は、ある夜のことを思い出した。あの夜から数ヶ月が経った頃のことであった。 * 田崎は、ベッドの中で、ふと、長い溜め息を漏らすことが、何度かあった。 その夜、静子は、軽い気持ちで聞いた。 「田崎さん、奥さんとは、どうやって結婚されたんですか?」 田崎は、しばらく黙った。それから、缶ビールを傾けた。 「見合いやってん。家柄のいい嬢さんでな。親同士の付き合いで、流れで結婚した感じや」 「その前は……?」 「ああ、まあ、付き合ってた人はおったよ」 田崎は、結婚する前の数年間、別の女と付き合っていたと言った。それ以上のことを、田崎は語らなかった。 「いろいろあってな。縁がなかったんやろうな」 田崎は、軽く言った。それから、缶ビールを口に運んだ。 「嫁さんも、適齢期で、親の話に従っただけや。俺を気に入って結婚したわけでもない」 田崎は吐き捨てるようにそう言った。 静子は、田崎の横顔を見ていた。 * 暗がり坂を上りきると、上には小さな神社があった。静子は鳥居の前で立ち止まった。参拝はしなかった。鳥居に向かって、軽く頭を下げた。誰に向けて頭を下げたのか、自分でも分からなかった。 ホテルに戻り、フロントで鍵を受け取った。窓の向こうに、雪を被った松の梢が、低い空に黒く浮いていた。 夕餉は、館内の料亭、白鳥であった。鴨の治部煮、源助だいこんの炊き合わせ、能登の寒鰤の塩焼き、ずわい蟹の小鉢。静子は、半分を残した。 湯に降りた。地下の浴場には、誰もいなかった。黄金の湯と呼ばれていた。湯は、淡く黄金がかった色をしていた。窓の向こうには、また雪が降り始めていた。手は、白く、ふやけていた。 六 鈴木大拙館 日曜の朝、静子はホテルを出ると、空は、淡く晴れていた。雪は、ひと晩で、薄く積もっていた。 ひがし茶屋街は、観光客がまだ少なかった。雪を被った瓦屋根が、二月の光に、淡く濡れていた。静子は、茶屋の暖簾をくぐった。 加賀の棒茶が、茶碗に注がれた。和菓子が、皿に添えられていた。緑の笹の葉に、雪のような干菓子が乗っていた。砂糖が、舌の上で、静かに溶けた。 茶屋を出て、静子は鈴木大拙館へ向かった。本多の森を抜けると、低い屋根の館が、池の面に静かに映っていた。思索空間と呼ばれる回廊の奥に、静子は座った。窓の向こうに、水鏡があった。風が止んだ。水面には、黒い松の影が、まったく揺れずに映っていた。静子は、長く、座っていた。誰も、来なかった。 * 田崎は、二週間に一度くらいの間隔で、静子の部屋に来た。妻が実家に帰っている週は、もっと頻繁になった。妻の実家は遠く、長く帰るのだと、田崎は言った。 妻が帰っている週、田崎は何日か続けて、静子の部屋に泊まった。静子の部屋に、田崎の歯ブラシが置かれた。冷蔵庫には、田崎が好きなビールが、常に冷えていた。けれども、妻が帰ってくれば、田崎は静子の部屋に来なくなった。一週間、二週間、田崎は来なかった。来ない週、静子は田崎が冷蔵庫に残したビールを、一人で飲んだ。 ある夜、静子は、思い切って、聞いた。 「田崎さん、奥さんと別れたいって、思うことある?」 田崎は、しばらく黙った。それから、静かに言った。 「思うことは、ないって言うたら、嘘になるかもな」 静子の心臓が、跳ねた。 「ただな、簡単なもんやないんや。子供もまだ大きなってないし、嫁さんの実家とも、いろいろあるし。今すぐ動ける話やない」 「……はい」 「気持ちはな」 田崎は、静子の頬に、軽く触れた。 「お前のとこにある。それは、ほんまや」 静子は、それ以上、聞かなかった。 七 寺町 昼は、近江町市場まで歩いた。市場の奥の、山さん寿司本店に入った。能登の寒鰤、加賀の甘海老、白海老、ずわい蟹の握り。静子は、ひとつずつ、ゆっくりと口に運んだ。 午後、寺町通りを歩いていた。古い寺の並ぶ通りであった。観光客の姿はまばらであった。冷たい空気が、静子の頬に染みた。 歩きながら、静子は、ある春のことを思い出していた。 * 田崎との関係が始まって五年が過ぎた頃であった。大学時代の友人が、静子に独身の男を紹介した。吉田裕也、という男であった。市役所とは縁のない、民間企業の社員であった。仕事も真面目で、人当たりも良かった。 静子は、田崎との関係に疲れていた。妻が帰ってくるたびに、田崎は来なくなる。来ない週、静子は一人でビールを飲んで、一人で眠った。 吉田と、静子は付き合い始めた。月に二、三度、食事をした。吉田は、休みの日に行きたい店のこと、いつか暮らしたい町のこと、そういうことを、静子に話した。静子は、頷いていた。 静子は、田崎に、吉田と付き合っていることを話した。 田崎は、少しの間、黙ってから、ぽつりと言った。 「俺にはお前を幸せにできん。それは認めなあかん。その人なら、お前を幸せにできるかもしれんな。悲しいが俺が邪魔になれば、いつでも身を引く覚悟や」 田崎は、静子の頬に、軽く手を当てた。 「俺のことは、もう気にせんでええ」 静子は、田崎の言葉を聞きながら、引き止めてほしかった。田崎は、引き止めなかった。 その夜以降、田崎は静子に、より頻繁に連絡を寄越した。「会えへんか」「今夜だけでええ」「お前の声、聞きたいんや」。静子が吉田と食事をしている夜にも、田崎からの電話が鳴った。静子は、出なかった。出なかったが、田崎の電話があったことが、静子の中で一晩、灯りつづけた。 吉田には、別に田崎という男がいることを話さなかった。 静子は、二人の男と並行して付き合った。気づけば、半年が過ぎていた。 そして、静子は妊娠した。 八 那谷寺 月曜の朝、静子は北陸新幹線で小松へ向かった。 小松駅でタクシーを拾った。那谷寺まで、と静子は告げた。雪が、車の窓に降っていた。山道を上ると、雪は、いっそう深くなった。 那谷寺の参道は、白く埋もれていた。杉木立の影が、雪の上に、青く落ちていた。静子は、参道の石段を、ゆっくりと上った。本堂の屋根から、ひとひらの雪が、音もなく落ちた。 奇岩の岩窟が、本堂の脇に開いていた。胎内くぐりと呼ばれる、古い祈りの場であった。静子は、岩肌に手をついた。岩は、湿って、冷たかった。岩窟の奥は、暗かった。静子は、しばらく、その暗がりの中に、立っていた。 昼は、山中温泉の方へ、タクシーで下りた。古い旅館の食事処に入った。九谷焼の小鉢に、河豚の白子、治部煮、金時草の酢の物が、ひと口ずつ盛られていた。客は、静子のほかに、いなかった。静子は、半分を残した。 食事のあと、旅館の日帰り湯に入った。総檜の湯船であった。窓の向こうに、雪が、また降り始めていた。静子は、湯の中に、しばらく身を沈めていた。 * 妊娠が分かったのは、十二月の最初の頃であった。検査薬の青い線を見たとき、静子は長く、立ち上がれなかった。 誰の子か、考えようとした。考えられなかった。最後に田崎が泊まったのは、いつであったか。最後に吉田と過ごしたのは、いつであったか。日付を数えても、分からなかった。 三日後、静子は田崎に話した。妻が、また実家に帰っている週であった。田崎は、ビールを飲んでいた。 「田崎さん、聞いてほしいことが、あるんです」 田崎は、テレビから目を離して、静子を見た。静子は、息を吸った。吐いた。 「妊娠しました」 田崎の手が、缶ビールの上で止まった。 「田崎さんの子か、吉田さんの子か、分かりません」 田崎は、何も言わなかった。長い沈黙であった。 「静子」 田崎が、静子の名前を呼んだ。田崎が静子を名前で呼ぶことは、ほとんどなかった。 「君の人生のために言うが、堕した方がええと思う。分からないのに産むのは、君が不幸になる。子供のためにも、ええことやない」 静子は、動かなかった。 「田崎さん、堕ろせといいますが、せっかく生まれてこようしている人間を殺すことになるのよ! それに、あなたの子かも知れないのよ!」 田崎の顔色が、変わった。 「ちょっと待て。すまん、言い方が悪かった。確かに、お前の言う通りや。ただし、正直、厳しい言い方になるかもしれないけど、静子も悪いと思う。いわゆる二股で二人の男と関係を持っているから、どちらの子か分からないのだ。仮に吉田さんに伝えて産んで、たとえば血液型が異なっていたらどうなる。つまり俺との子だったとしよう。その場合、吉田さんは当然自分の子だと思って楽しみにしていたが、出てきたら、結果、違う男との間の赤ちゃんだった、なんてことあったら、お前は終わりやぞ。吉田さんにどう説明するねんな? また、俺も既婚者やぞ。どうやって、こどもを育てるつもりや?」 静子は、悔しかった。田崎にとって、自分は遊びでしかないのであった。妻とうまくいっていない腹いせに、自分と遊んでいるだけなのであった。一方、静子は違った。子を堕せば、傷者になる。医者に頼んで我が子の命を断つのは、一種の殺人行為ではないか。田崎と静子とでは、リスクが違いすぎた。不公平すぎた。 「吉田さんにも、聞いてみます」 静子は、それだけ言った。田崎は、頷いた。 翌週、静子は、吉田を、自分の部屋に招いた。 「妊娠しました」 吉田は、茶碗を握ったまま、長い間、動かなかった。それから、顔を上げた。 「俺はお前と結婚したい。子供も好きや。だから産んでくれ」 吉田の声には、迷いがなかった。静子は、何も言えなかった。 その夜から、静子は悩んだ。眠れない夜が、続いた。吉田の声と、田崎の声が、交互に頭の中で響いた。「俺はお前と結婚したい」。「お前は終わりやぞ」。 二週間目の夜、静子は決めた。田崎に電話をした。「堕します」と告げた。田崎は、少しの間、黙ってから、「分かった」と言った。「金は出す」と続けた。 静子は、堕した。一人で病院に行った。田崎は仕事を理由に、来なかった。吉田には、その時は、何も話さなかった。 * 数週間が過ぎた頃、静子は吉田に会った。喫茶店であった。吉田は、笑顔であった。 「親に話す段取り、ちょっと考えてたんや。お前の親には、いつ会いに行ったらええ?」 静子は、吉田の顔を見た。優しい目をしていた。息を吸った。 「先月、堕しました」 吉田の顔から、表情が消えた。それから、ゆっくりと、表情が戻ってきた。 「俺の子だったかもしれない命を、お前は、俺に何も言わずに、堕したんか」 静子は、答えられなかった。 「俺は、いずれ、お前と結婚するつもりやった。お前は、そういう俺のことを、何だと思ってたんや」 静子は、何も答えられなかった。 吉田はそれ以上、何も言わなかった。コーヒー代をテーブルに置いて、店を出ていった。 吉田とは、二度と会うことはなかった。 九 犀川 夕方近く、静子は金沢に戻った。片町の赤玉本店に立ち寄った。赤巻、車麩、と店の女が出してくれた。 夕暮れ、静子は犀川大橋の上に立っていた。浅野川と対をなす、もう一つの川であった。犀川の水は、夕暮れの光を反射して、白く見えた。 橋を渡りながら、静子は思い出していた。 * 堕してから、しばらくの間であった。田崎が、突然、連絡を絶った。三週間ほど、何の連絡もなかった。静子は、不安で何度かメッセージを送ったが、返信はなかった。 三週間と二日後、田崎から連絡が来た。 「悪かった、ちょっとややこしいことがあって」 詳しいことは、田崎は語らなかった。静子も、聞かなかった。 * 堕胎してから2ヶ月が経った朝のことであった。堕胎以来、静子は田崎を部屋に上げなかった。田崎は何事もなかったように、繰り返し連絡を寄越した。けれども、静子の心は、もう、田崎に戻らなかった。 静子は、その朝、決めた。 次に田崎が来る日の前日、静子は田崎にメッセージを送った。「明日、玄関で、五分だけ、話したいことがあります」。田崎は、すぐに返信してきた。「分かった」。 翌日の夜、田崎が来た。いつものように、笑顔で立っていた。 「久しぶりやな」 田崎は、当たり前のように上がろうとした。静子は、ドアの内側に立って、入れなかった。 「上がらんでください。ここで、話します」 田崎は、玄関に立ったまま、静子を見た。 「もう、会いません」 田崎の顔が、固まった。それから、笑おうとした。笑えなかった。 「急にどうしたんや」 「急にじゃないです」 田崎は、静子に近づいた。手を伸ばして、静子の頬に触れようとした。静子は、首を引いて、それを避けた。田崎の手が、宙で止まった。 田崎は、玄関の壁に、手をついた。長い沈黙があった。 「君がおらんと俺、無理や。十年やぞ、俺ら」 静子は、答えなかった。田崎は、長く黙った。それから、最後に、ぽつりと言った。 「静子、俺、今の妻とは離婚しようと思ってるねん。お前と一緒になろうと思ってな。お前には長い間辛い想いさせて、子供まで堕させた。それを償わせてくれ!」 田崎は、俯いていた。 「静子のことが好きなんや。俺の残りの人生、お前と過ごしたい」 静子は、田崎の顔を、もう一度見た。けれども、静子の心は、もう動かなかった。あの時、堕ろせと言った田崎。自分のことしか考えていなかった田崎。その薄情さに、静子はとうに愛想を尽かしていた。 「田崎さん、もう、会わない」 静子は、ドアを閉めた。 ドアの向こうで、田崎の足音が、階段を降りていった。 静子は、玄関の床に、座り込んだ。涙は、出なかった。 十 梅ノ橋 火曜の朝、静子はホテルを出た。空は低く、雪が降り始めていた。 最初に立った橋に向かって、ゆっくりと歩いた。雪は、本格的に降ってきた。 梅ノ橋の上に、静子はもう一度立った。 雪が、頬に触れた。静子は、手のひらを上に向けた。雪が手のひらに触れた。冷たかった。 堕した子のことが、ふと、浮かんだ。生きていれば、3ヶ月になっているはずであった。雪はその子の上にも降っているのだろうか。降っているはずがなかった。 涙が出てきた。 3ヶ月のあいだ、静子は泣かなかった。堕した日にも、別れた日にも、泣かなかった。 橋の上で、静子は泣いた。 やり直したかった。 何をやり直すのか、静子にも分からなかった。 雪はまだ降っていた。 終 鼓門 金沢を発つ朝であった。田崎から、ラインが来た。 「お前のために離婚した。やっと二人になれる。今度はお前だけを見ていられる。一緒に暮らしたい」と、田崎は書いていた。 静子は、ラインを、何度か読み返した。 静子は、田崎に返信をしなかった。 静子は、金沢駅の鼓門をくぐった。鼓門は、二本の太い柱が、雪空に向かって立っていた。柱の影が、駅前の石畳に、長く伸びていた。 改札を抜けて、特急に乗った。湖西線の湖は、薄く凍っていた。雪が、湖の面に降っては消えた。 月曜の朝、静子は出勤した。田崎は、まだ同じ課にいた。静子は田崎に挨拶した。田崎は何かを言いかけて、言わなかった。静子は自分の席に座った。 窓の外には、空が広がっていた。雪は降っていなかった。 静子は、その日の仕事を始めた。

コメント

けにを
- 2026-05-05 19:48

うーん。。。

本当は4月の同タイトル「金沢の静寂」として、投稿したかったのだが、出来たものが1万字を超えてしまいました。
1万字以内に抑えるのに時間がかかってしまい、期日に間に合わず5月になってしまいました。

残念。