日常 | イベント: 同タイトル | 2026年5月 | 文字数: 5165 | コメント: 0

コロッケの秘密

🗡️ 一番槍

その朝も、由美は、暗いうちから、台所に立っていた。 じゃがいもを茹で、熱いうちに皮をむくと、指の先が、赤くなった。潰して、玉ねぎと挽肉を炒め、混ぜて、冷ます。冷めるまでは、包めない。今週は、カレーの粉を、少し混ぜてみた。先週は、コーンを、たっぷり入れた。その前は、何だったろう。由美は、何度も、ちがうコロッケを、作っていた。 冷めたタネを、ひとつずつ、手のひらで丸め、小麦粉、卵、パン粉と、順につけていく。両手が、衣で、白くなった。鍋に油を熱し、ひとつ、ふたつと沈めて、菜箸で返す。 二〇〇一年、九月十二日の朝だった。つけっぱなしのテレビは、前の夜から、同じ映像を、繰り返し流していた。煙を噴く高いビルに、二機目の飛行機が、吸い込まれていく。アメリカで、旅客機が、ビルに突っ込んだのだという。何千人もが、生き埋めになっていると、アナウンサーの声が、上ずっていた。世界じゅうが、大騒ぎになっていた。 由美は、ちらと、それを見た。そして、また、油の鍋に、目を戻した。きつね色に揚がったものを、網に上げていく。窓の外が、白みはじめる頃、ぜんぶ揚げ終わった。揚げ油の匂いが、髪にも、エプロンにも、染みついて、取れなくなっていた。 大皿に山と盛ったのは、夫と、ひなたの、今日のぶんだった。そのなかから、いちばん形のいいのを、二つ、三つ、選んだ。紙を敷いた小さなパックに、ひとつずつ、ならべて入れる。冷めないよう、上から、タオルで、くるんだ。 由美は、そのパックを持って、車に乗りこんだ。助手席に、そっと置く。ハンドルを握り、まだ薄暗い道を、走らせた。 * * * 車で四十分。郊外の、介護施設だった。 駐車場では、兄の和彦が、煙草を吸って待っていた。和彦の手は、空だった。由美が車から降りると、和彦は、煙を吐きながら、聞いた。 「今日は、どんなコロッケにしたんだ」 「カレー味。ちょっと、混ぜてみた」 「ほう。おめは、ようやるわ」 和彦は、短くなった煙草を、地面で踏み消した。父のところへは、たいてい、二人で来る。コロッケを持っていくのは、週替わりだった。由美の番の週は、自分で作り、和彦の番の週は、買ってくるか、和彦の妻が作った。 施設に入ると、由美は、いつものように、給湯室を借りた。タオルをほどき、コロッケを、トースターに並べる。電子レンジだと、衣が、しんなりしてしまう。トースターで温めなおすと、表面が、また、さくっと、戻った。皿に移して、しばらく、息を吹きかけた。熱いまま出せば、父は、口を、やけどする。歯も、弱くなっている。すこし、さまし、指で、熱さを確かめてから、面会室へ運んだ。 面会室で、父は、窓の外を、見ていた。秋の光が、白く、差していた。 「お父さん、コロッケ、作ってきたよ。あったかいうちに、食べて」 由美が、皿を出すと、父の目が、そこに留まった。 「コロッケ。……んめァコロッケ」 痩せた指が、フォークをつかむのに、少し手間取った。一口、口に運ぶ。ゆっくりと噛む。 「……んでね」 父は、フォークを置いた。ちがう、と言っているらしかった。 「んでねって……ほだら、どんなコロッケなのよ」 父は、その問いには答えなかった。ただ、また、同じことを言った。 「コロッケ。んめァコロッケ」 どんなコロッケかと聞いても、返ってくるのは、いつも、その言葉だけだった。父は、窓の外を、見ていた。由美は、その湯呑みに、茶をついだ。 * * * 母は、由美が三つのときに逝った。それから、父が、男手ひとつで、由美と兄を育てた。 父は、鉄工所で働いていた。指の節は、いつも、油と、小さな傷で、黒ずんでいた。朝は早く、夜は遅かった。台所のことは、得手ではなかった。飯は、前の晩の残りか、店で買った惣菜で済ませた。手の込んだものが、食卓に上ることは、なかった。コロッケのような、手間のかかるものを、働きづめの父が、こしらえる暇など、なかった。 由美の髪を、きれいに結ってやることもできなかったから、由美の髪は、いつも、すこし、ぼさついていた。参観日には、作業着のまま、教室のうしろに、ひとりで立った。ほかは、みな、母親だった。父は、はにかむように、そこに立っていた。 だから、由美には、分からなかった。コロッケなど無縁だった父が、どんなコロッケを、欲しがっているのか。 * * * 父が、コロッケ、コロッケと言いはじめたのは、夏の終わりだった。はじめに持っていった、ふつうのポテトコロッケが、「んでね」と言われた。それから、兄妹は、毎週、交代で、ちがうコロッケを、持っていくことにした。 由美の番の週は、自分で作った。本屋へ行って、料理の本を、何冊も買った。コロッケだけで、こんなに種類があるのかと、由美は驚いた。付箋を貼り、夜、遅くまで、読み返した。料理の上手な、昔からの友だちにも、電話で聞いた。「うちの父が、コロッケ、コロッケて、言うのよ。どんなコロッケが、いちばん旨いんだべ」。受話器を肩にはさんで、手帳に書きとめた。蟹のクリームコロッケは、ホワイトソースが、二度、焦げた。三度目に、やっとうまく出来た。 和彦の番の週は、ちがった。「おれァ、料理なんて、できねがら」と、和彦は、評判の店まで、車を走らせた。あそこの肉屋のが、うまいらしい、と聞けば、隣の町まで、買いに行った。和彦の妻が、手をかけて作った週もあった。 かぼちゃのコロッケ。とうもろこしのコロッケ。おからの入ったの、里芋の、海老の。遠くの土地の名物だという、変わったコロッケを、取り寄せたこともあった。どちらが持っていっても、父は、同じだった。一口、噛んで、そして、 「んでね」 本を読んでも、友だちに聞いても、いちばん高い肉屋のものを買っても、父の言う「んめァコロッケ」が、どんなものなのか、分からなかった。それでも、自分の番が来ると、由美は、また鍋に火をつけた。父に育ててもらった。今度は、自分たちの番だと思った。 * * * 「ママ、なんでコロッケばっかり作るの」 台所をのぞきこんで、娘のひなたが言った。ランドセルを背負ったままだった。 「おじいちゃんとこに、持っていくのよ」 「また? ひなた、もう、コロッケ飽きた」 「ひなたのでねぇの。これは、おじいちゃんの」 ひなたは、まな板の上のじゃがいもと、ボウルの中のひき肉を、しばらく見ていた。 「おじいちゃん、コロッケ食べたら、元気になる?」 由美は、じゃがいもを潰す手を、止めた。 「……そうだと、いいなぁ」 ひなたは、ふうん、と言って、奥の部屋へ行った。 * * * 父は、その頃から、季節が、分からなくなっていた。葉を落とした窓の外を見て、「桜は、まだ咲かねのが」と言った。十二月だった。 施設にいることも、忘れるようになった。面会の途中で、ふいに立ち上がろうとする。窓のほうを指して、言う。 「もう、暗ぐなる。家さ、帰らねば」 「お父さん。ここが、お父さんのおる所だよ」 父は、由美の言うことが、のみこめないようだった。職員が来て、肩にそっと手を置くと、また椅子に座った。座ると、すぐに、何ごともなかったような顔になった。 昼の食事を終えたばかりなのに、「飯は、まだか」と言うこともあった。食べたことが、父の中に、残らなくなっていた。 それでも、皿を出すと、父の口は、決まってあの言葉を探し当てた。 「コロッケ。んめァコロッケ」 * * * 年が明けて、父は、由美のことが、分からなくなった。 面会室に入っていくと、父は、丁寧に頭を下げた。知らない客にするような、よそよそしい礼だった。 「どなたさん、だったべか」 「由美だよ。お父さんの、娘の」 父は、はあ、と気のない返事をして、また窓のほうを向いた。 季節が、場所が、そして、人が、順に、父の中からこぼれ落ちていった。それでも、皿の上のものを見ると、父は、必ずつぶやいた。 「コロッケ。んめァコロッケ」 * * * 「もう、いいんでねぇが」 帰りの廊下で、和彦が言った。 「親父、おれだちの顔も分がんねのに。コロッケの正解、探したどこで、もう」 由美は、立ち止まった。蛍光灯が、廊下のリノリウムに、白く伸びていた。 「……もう、わがんねぇ」 由美が、そうこぼすと、和彦も、黙って、うなずいた。 母は、二人が、三つや四つのうちに、逝った。その顔を、由美も、和彦も、覚えていなかった。 * * * ある土曜の朝、由美は、台所で、ゆで卵を茹でていた。ひなたの弁当に入れるつもりだった。鍋の中で、卵が、こつこつと鳴っていた。その日は、由美の番だった。 その隣で、コロッケのタネを丸めていた。もう、何を入れたらいいのか、由美には分からなくなっていた。じゃがいもも、肉も、蟹も、かぼちゃも、ぜんぶ「んでね」と言われた。残っているものなど、もう、なかった。 湯気の立つ鍋から、ゆで卵を一つ、すくい上げた。殻をむくと、大きな白身が、つるりと光った。 由美は、半ば、やけになっていた。その固ゆで卵を、まるごと、じゃがいものタネで、包みこむ。理由は、なかった。ただ、もう、まともなものは、何ひとつ、思いつかなかった。手のひらの中で、ずいぶん、大きなコロッケに、なった。 包んだタネを、しばらく冷蔵庫で冷やした。冷やさないと、揚げたときに割れる。それくらいは、この何ヶ月かで、覚えていた。 油に沈めると、衣が、きつね色に固まっていった。 * * * その日は、和彦の都合がつかず、由美とひなただけだった。父は、窓のほうを向いていた。 由美は、皿を、父の前に置いた。半分に切ったコロッケの断面から、白身に包まれた黄身が、ほろりと顔を出していた。 「お父さん。コロッケだよ」 父は、ゆっくりと、フォークを取った。断面を、しばらく見ていた。一口、口に運ぶ。噛む。 父の、噛む口が、止まった。 フォークを持った手が、皿の上で、宙に浮いたまま、動かなくなった。父は、目を見開いて、由美の顔を見た。 父の、節くれだった手が、ふいに伸びて、由美の手首を、つかんだ。骨ばった指に、思いがけない力が、こもっていた。 「……ハル」 由美は、息を止めた。それは、母の名だった。母は、春子といった。父は、いつも、ハル、と呼んでいた。 父は、まるで、いつもの夕餉どきに、台所のハルへ、声をかけるようだった。 「ハル……これ、おめの、コロッケだ」父の声は、震えていた。 父は、由美の顔を、見ていた。けれど、見ていたのは、由美では、なかった。 「卵の、入った……」 父の目から、涙が、皺をつたって落ちた。落ちるのに、ずいぶん長くかかった。 「うめ……ハル……おめの、コロッケが、いちばん、うめぇ」 由美は、何も言えなかった。父の手を、つかみ返すこともできず、ただ、つかまれているその手首の、骨の感触だけを、感じていた。 * * * 「おじいちゃん、どうしたの?」 いつのまにか、ひなたが、由美のうしろに立っていた。 由美は、答えられなかった。 父は、もう、由美のほうを見ていなかった。皿のコロッケを、両手で、大事そうに持っていた。若い男のように、ひとくち、ひとくち、噛んでいた。 由美は、母の顔さえ、覚えていなかった。まして、父と二人きりだった、若い新婚の頃のハルのことなど、知るはずもなかった。由美の知らない台所に、由美の知らない朝に。 父が、コロッケ、コロッケと言いつづけたわけが、由美には、ようやく分かった気がした。 由美は、父の手に、そっと、自分の手を重ねた。 父は、それに気づかないまま、最後のひとかけを、口に入れた。今度は、んでね、とは、言わなかった。 そして、窓のほうへ、顔を向けた。何もない、午後の光のなかへ、ゆっくりと、目を細めて、笑いかけた。その光の先に、割烹着を着た、若い妻が、立っているようだった。由美の知らない、新婚の頃の、ハルが。

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