ホラー | イベント: 同タイトル | 2026年6月 | 文字数: 5042 | コメント: 1

ラスト・パンダ

🗡️ 一番槍

一、開花 その年、中国じゅうの竹が、いっせいに花を咲かせた。 四川の山も、陝西の谷も、淡い穂のような花で白くけぶった。 美しい、と人々は写真を撮った。 だが、土地の古老は、その花から、目をそらした。 竹の花は、凶兆。 咲けば、ひとつの時代が終わり、飢えが来る—— この国には、古くから、そういう言い伝えが、あった。 学者だけが、青ざめた。 竹は、数十年に一度しか咲かない。 そして——咲いたら、枯れる。 一本残らず、いっせいに。 花は、種ではなく、終わりの合図だった。 その年の冬、山から竹が消えた。 枯れて、倒れて、土に還った。 新しい芽が地表を覆うまで、十年。早くて、十年。 ジャイアントパンダには、十年を待つ腹がなかった。   * 二、滅び 保護区のパンダが、倒れはじめた。 最初は老いた個体から。次に、仔を抱えた母親。 備蓄の笹はすぐ尽きた。中国政府は世界中から竹をかき集めたが、地球上の竹林がいっせいに死ぬ流れには、何の意味もなかった。 繁殖施設のパンダも、次々に死んだ。 冷凍された精子も、人工授精の技術も、与える主食がなければ、ただの数字だった。 一頭、また一頭。 ニュースの数字が、減っていく。 百を切り、十を切り、ひと桁になった。 そして、ある朝。 世界に、ジャイアントパンダは、一頭だけになった。 四川の山奥の研究センター。 名を、団円(トゥアンユアン)。 「めぐり会い」「満ち足りる」という意味の名だった。 皮肉な名前だ、と飼育員の林(リン)は思った。 笹が尽きて、長い飢えの果てに。 団円は、もう五日、何も、口にしていなかった。   * 三、飢え 林は、二十年、パンダを世話してきた。 団円は、林の手から生まれた仔だった。 仔のころ、林の長靴に噛みついて転がった。 背中によじ登って、耳を引っぱった。 その団円が、檻の隅で、動かなくなっていた。 骨が浮いていた。あの、まんまるだった体から、肉が落ちていた。 黒い隈取りの中の目が、落ちくぼんで、昏かった。 「死ぬな。お前まで死んだら、もう……」 その夜、林は檻の前で居眠りをした。 物音で、目を覚ました。 団円が、立っていた。 そして——檻の隅で、何かを、喰っていた。 侵入してきた、一匹のネズミ。 パンダが、生き物を、喰っていた。 ぴちゃ、ぴちゃ、と音がした。 林の背筋が、凍った。   * 四、目覚め 学者たちは、最初、喜んだ。 「食肉目だ! 元来、クマの仲間だ! 肉を消化できる!」 ジャイアントパンダは、進化の途中で肉を捨て、竹を選んだ獣だ。 団円は、肉を喰うようになった。 鶏。豚。山羊。 与えれば与えるほど、痩せた体に、肉が戻っていった。 「助かった……団円、助かったんだ」 林は泣いた。 種が、繋がった、と思った。   * 五、変容 肉を喰うたびに、痩せた体に、別のものが満ちていった。 笹で養われた、あのまるい体ではない。 骨格が軋み、肩に、背に、前肢に、筋肉が、隆々と、盛り上がっていく。 まるく、やわらかかった笹食いの体が、肉を裂くための、たくましいクマの体つきへ、作り替えられていく。 ——もともと、クマだった。 白と黒の、あの愛らしい毛並みが、汚れ、ねじれ、硬くなっていく。 白いはずの部分が、灰に。黒いはずの部分が、底なしの墨に。 愛くるしさの配色のまま、別の獣の体になっていった。 目のまわりの黒い隈取りだけが、昔のままだった。 化け物の顔の中に、世界が愛したパンダの、面影だけが、残っている。 そして、目が、合わなくなった。 林を見ても、何も浮かばない。 ただ、値踏みするような目で、林の喉のあたりを、見るようになった。 笹を食べる獣は、人を恐れる。 肉を食べる獣は、人を、量る。   * 六、臨界 事故は、給餌のときに起きた。 新人の研究員が、肉のバケツを運んでいて、足をすべらせた。 膝をついた。檻の、すぐ前で。 団円が、動いた。 パンダとは思えない速さで。クマと同じだけの速さで。 太い前肢が鉄柵の隙間から伸び、研究員の腕をつかんだ。 悲鳴。引きずり込まれる。 あの愛くるしい白黒が、見たことのない力で、人間を、檻の中へ。 林が駆けつけたとき、もう、遅かった。 そして林は、見た。 団円が人の肉を口にした、その瞬間。 昏い目の奥に、何かが——初めて、満たされた色が、灯るのを。 鶏でも、豚でもない。 人を喰った団円は、初めて、足りた顔をした。 林は、警報のボタンの前に、立った。 これを押せば、応援が来る。軍が来る。 そして、人を殺した獣は、もう、生かしては、おかれない。 四十年の保護も、世界中の愛も、人ひとりの血で、ひっくり返る。 林の指は、ボタンの上で、止まったまま、動かなかった。 血まみれの口で、団円が、こちらを見ていた。 昔と同じ、あの、黒い隈取りの目で。 「……ばかやろう」 林は、ボタンから、手を離した。   * 七、偽りの死 その夜、林は、決めた。 二十年、この施設で働いてきた。どこに人がいて、どこに人がいないか。 どの扉が、どこへ続くか。 彼は、誰よりも、知っていた。 裏手の通用口を開けた。 山へ続く、職員用の細い道。 団円を、そこへ、導いた。 「行け」 ポケットから、林檎をひとつ出した。 団円が仔のころ、いちばん好きだった果物。 それを、山の方へ、放った。 「生きろ。山へ行け。竹がまた生えるまで——鹿でも、猪でも、喰えるものは、なんでも喰って、生きのびろ。 そして——二度と、人前に出るな」 白と黒の影が、闇の斜面を、登っていった。 一度だけ、ふり返った。 その目が、濡れていた。 月の光が、滲んでいるだけ、かもしれなかった。 だが林には、怪物になり果てたその獣が、泣いているように、見えた。 人を喰い、化け物の体になっても。 別れの意味だけは、分かっているかのように。 団円は、もう一度だけ、低く、鳴いた。 仔のころ、林を呼んだときと、同じ声で。 それから、枯れた竹林の、白い亡骸の中へ、消えた。 林は、戻った。 そして、嘘を、組み立てた。 研究員が喰われたことは、隠しようがなかった。 血も、骨も、檻の中に、残っていた。 だから、それは、事実のまま、報告した。 飢えた最後のパンダが、人を襲い、喰った、と。 隠したのは、ひとつだけ。 ——自分が、その獣を、山へ逃がしたことだった。 餌やりの隙に暴れ、自力で柵を破って、闇へ逃げ去った。 そういう痕跡を、檻に、丁寧に、作った。 翌朝、彼は、震える声で、世界に向けて発表した。 「最後のジャイアントパンダ、団円が、研究員一名を殺害し……施設から、逃走しました。 飢えが、あれを、変えてしまった。 ……止められませんでした」 世界が、凍りついた。 かつて誰もが愛した白黒の獣が、人を喰らい、山へ消えた。 各国の動物園は、パンダ舎の扉を、閉ざした。 その前に、人々は、花ではなく、沈黙を、置いた。 「ラスト・パンダ、人喰いパンダとなり消ゆ」――新聞は、その報を、黒枠で、囲んだ。 ざわめく人波の中に、林は、ひとり、立っていた。 うつむいて。 世界でただひとり、その獣が、まだ生きていることを、知りながら。   * 八、天網(てんもう) だが、ここは、中国だった。 国土を、目に見えぬ網が覆っている。 道に、街角に、山の入口に。 何億という監視カメラが、まばたきもせず、人の営みを、見ている。 人は、それを「天網」と呼んだ。 パンダが人を喰ったことを、疑う者は、いなかった。 血も、骨も、檻に残っていたからだ。 疑われたのは、その先だった。 ——あの鈍重な獣が、どうやって、頑丈な柵を破り、施設を抜け、山まで逃げのびたのか。 獣が自力で逃げた、という飼育員の話を、当局は、信じなかった。 ひとりでに、都合よく消える獣など、いるものか。 すぐに、調べが、始まった。 そして――保管された、膨大な映像を、巻き戻した。 その夜の、施設裏の通用口。 山へ続く、職員用の道。 粒の粗い、暗視の画面に、それは、映っていた。 ひとりの男が。 人を喰ったばかりの獣を、撃たせもせず、追いもせず。 闇の山へ、そっと、導いていく姿が。 林檎を、放ってやる手まで。 ふり返る、男の顔まで、はっきりと。 天網恢恢、疎にして漏らさず。 ――天の網は、広く、目が粗く見えて、何ひとつ取りこぼさない。 林が、全世界を欺いてまで、たったひとつ隠したかった、あの夜を。 人の世界を見つめる網だけは、とうに、見ていた。 林は、逮捕された。 人を殺した獣を、殺さず、野に放った罪。 証拠隠滅。虚偽報告。職務の、放棄。 報道は、手のひらを返した。 昨日まで、彼は、悲運の飼育員だった。 最後のパンダに二十年を捧げ、その獣が飢えに狂い、人を殺めるのを、なすすべなく見た男。 世間は、その不運に、同情していた。 それが今日――「人喰いの怪物を、自らの手で野に放った男」に、変わった。   * 九、ラスト・パンダ 取り調べは、苛烈だった。 「なぜ、警報を押さなかった。押せば、その場で始末できたんだ。  なのに、夜陰にまぎれて、人喰いの怪物を、野に放った。なぜだ」 林は、答えなかった。 「お前が逃がした獣が、また人を襲えば――その血は、お前が、流させるんだぞ」 林の肩が、わずかに、震えた。だが、口は、開かなかった。 言えるはずが、なかった。 ――あれは、まだ、団円だ。 肉が、飢えが、いっとき、狂わせているだけ。竹さえ戻れば、また、まるい団円に、戻る。 二十年、世話をしてきた林には、わかっていた。 だから、殺させず、逃がした。 猪でも、鹿でも喰って、竹が戻る日まで、生きのびろ――そう願って。 だが、それを、どう言える。 口にすれば、正気を疑われ、罪を、重ねるだけ。 林は、ただ、黙っていた。 林は、牢に下った。 人喰いの国宝が、山に放たれている――人々は、おびえた。 軍が、山へ入った。ヘリが枯れ竹を舐め、兵が、尾根を、しらみ潰しに、分け入った。 だが、白と黒の獣は、どこにも、いない。 カメラ一つ立たぬ山の奥へ、溶けて、消えていた。 「二度と、人前に出るな」――林の言葉を、守るかのように。 やがて、国は、嘘をついた。 「逃走したパンダを、山中にて発見し、射殺・処分した」と。 亡骸は、公にされず、誰も、疑うことを、許されなかった。 こうして、最後のパンダは、死んだことに、なった。 皮肉な、ことだった。 その嘘だけが、はからずも、あの子を、誰の手も届かぬ山へ、葬ってくれた。 死んだ獣を、追う者は、いない。 ほんとうに生きているのか、それは、誰にも、わからない。 牢の中で、林は、ただ、信じた。 あの子は、生きている。竹が、よみがえる、その日まで――きっと、と。   * 十年が、過ぎた。 四川の、枯れた竹林に、新しい竹の芽が、土を割って、出はじめたころ。 山深く分け入った老猟師が、見た。 枯れ竹の亡骸の中で、一頭の老いた白と黒のパンダが、若い、緑の竹を、静かに、食んでいるのを。 「山に、老いたパンダが、いる」 絶滅したはずの、国宝が――その噂は、やがて、当局を、動かした。 ヘリが飛び、調査隊が、枯れ山を、しらみ潰しに、分け入った。 だが、獣は、踏み込む者の、先へ先へと、山の奥深くへ、退いていく。 ついに、その姿を、捉えた者は、いなかった。 やがて噂も、消えた。 だが――その話は、めぐりめぐって、牢の壁の中にまで、届いた。 山の奥で、白と黒のパンダが、緑の竹を、食んでいる。 それを聞いて、老いた林は、格子の隙間から、遠い山を見た。 青く、霞んでいた。 そして、ほんの少し、笑った。 それが、林の、罪だった。 それが、林の、ほこりだった。 (了)

コメント

ほわみ
- 2026-06-06 18:21

なかなかいいんじゃないですか。けにをさん長編を書きましたね。