文政の改新
🗡️ 一番槍一 時は江戸時代の終わりごろ、文政十年(1827年)の春。江戸から北へ八十キロほど行った街道沿いに、篠原宿という宿場町があった。 この町に、表向きは職業紹介業、その裏では蔵で賭場を開いている親分がいた。篠原の辰五郎、四十二歳。このあたりで名前を知らない者はいない。 春先の朝、霜の残る通りを、辰五郎はひとりで歩く。上等だが地味な着物に、足音のしない雪駄。ぱっと見は堅気の商人と変わらない。ただ、すれ違う町の人がみんな足を止めて頭を下げるのが違った。豆腐屋の六助には母親の腰の具合を聞き、よく効く塗り薬を届けてやる。そのくせ、礼を言わせる間も与えずさっさと歩き出す。恩を着せないのが、辰五郎のやり方だった。 宿場のはずれには古い板橋があった。去年の秋の大水で橋げたが傾き、竹のつっかえ棒でどうにか支えてある。荷車が通るたび、ぎしぎしと嫌な音を立てた。 その橋の下の河原に、流行り病で両親を亡くした兄妹が住みついていた。兄の留吉が十一歳、妹のおみつが七つ。むしろ掛けの小屋に、わらを敷いて眠る暮らしである。辰五郎は毎朝、握り飯を届けに来る。 「留。おまえ、読み書きはできるか」 「……できねえ」 「よし。明日から昼過ぎに、正覚寺の和尚さんのところへ行け。話は通してある。月謝もいらねえ。そのかわり、おみつの飯はおまえが炊け」 留吉はぽかんとしていたが、やがて握り飯を持ったまま、ぺこりと頭を下げた。 立ち上がりながら、辰五郎は言った。 「言っとくがな、留。おれみたいになるんじゃねえぞ。おれたちはな、まっとうな道から外れた、いわば日陰者だ。おまえは日向を歩け」 土手を上がっていく背中を、兄妹はいつまでも見送っていた。 二 昼下がり。いつもなら出汁のいい匂いが流れてくる蕎麦屋の武蔵屋が、その日はのれんも出していなかった。店の前では、金貸し・海老屋の番頭が手代を二人連れて声を張り上げていた。店主の宗助が女房の薬代のために借りた二両が、悪質な利息で一年で七両にふくれ上がり、今日が店を取り上げられる期限だった。土間に座り込んだ宗助はただ頭を床にこすりつけ、奥では病気の女房が青い顔で震えている。通りには人だかりができたが、相手が海老屋では誰も口を出せなかった。 「宗助さん、今日が期限だと証文に書いてある以上はねえ。お店の権利書、渡してもらいましょうか」 そこへ、ふらりと入ってきたのが辰五郎だった。二十五両の包みをひとつ、どさりと置く。 「二両が、一年で七両とはね。……元金と利息の七両、そこから取っていきな。釣りは置いていけ。証文はこの場で宗助さんに返して、なかったことにしてもらおうか。それとな、帰ったら海老屋の旦那に伝えてくれ。——この宿場で商売するなとは言わねえ。だが、病人の枕元でそろばんをはじく音は、おれの耳に障る、とな」 声は静かなままである。だが番頭のひたいには、汗が浮いていた。 番頭たちが逃げるように帰ったあと、泣き崩れる宗助夫婦に、辰五郎は手を振った。 「恩に着るくらいなら、うまい蕎麦を打ちな。おれはおまえの蕎麦が、この宿場で一番だと思ってるんだ。それが食えなくなると困るから、金を出した。つまりは、おれの勝手よ」 蕎麦一杯ぶんの十六文をきちんと払い、運ばれてきたかけ蕎麦を音を立ててすすると、「うん、うまい」とだけ言って出ていった。見ていた人だかりから、ほうっとため息がもれた。誰かが、ぽつりと言った。 「……お上(幕府や役人)は、あたしらから取り立てるばっかりだけどねえ」 三 夜。蔵の重い扉の内側は、昼間の宿場とは別世界だった。つり行灯が白い畳を照らし、サイコロの目に一喜一憂する客の熱気がこもっている。その盆に、旅の呉服商人と名乗る客が上がっていた。勝負が五番ほど進んだところで、奥に座っていた辰五郎が煙管をこつりと鳴らし、子分頭の卯之吉を低い声で呼んだ。 「あの野郎、博打打ちの目じゃねえ。賭けはほどほどに、目ん玉だけがずっと仕事をしてやがる。盆(=賭けの場)じゃなく、蔵の出入り口と客の顔を数えてる目だ」 辰五郎は畳から腰を上げ、ゆっくりと男の前に立った。大きな男ではない。だが男には、山が動いたように見えた。 「——お客人。ふところの物、あらためさせてもらうぜ」 男の顔色が変わった。子分たちが両側から腕を押さえる。ふところから出てきたのは、一冊の帳面だった。開けば、賭場の見取り図に、蔵の出入り口の数、客の似顔絵まで。最後のページにはこう書いてあった。——篠原宿の親分辰五郎、お上の取り締まりが始まった時は、真っ先に売る。 蔵の中が、しんと凍りついた。男の顔から、脂汗が流れた。 「……取り締まり、ときたか。誰に頼まれた。言えば、五体満足で帰してやる」 男は白状した。幕府の取り締まり役人——通称「八州廻り」が、この春から博打打ちを大がかりに狩り立てる触れが出ること。その手柄の種にするため、賭場の見取り図を集めて回っていたこと。そして。 「し、宿場の……海老屋の旦那が、手引きを。篠原の一家を売れば、あとの職業紹介と金貸しは海老屋がぜんぶ独り占めできると……」 いきり立つ子分たちを、辰五郎は一喝した。 「座れ。海老屋を痛めつけてどうなる。お上に『博打打ちが堅気の商人を襲った』って口実をくれてやるだけよ。相手は海老屋じゃねえ。お上そのものだ。八州廻りが来るってのはな、雨が降るのと同じだ。恨んでも呪っても、降るものは降る」 辰五郎は男の帳面を行灯の火にかざして灰にすると、男を宿場の外へ叩き出した。 四 客を帰した蔵で、子分頭の卯之吉が聞いた。 「親分。……本当に来ますかね、八州廻り」 「来るさ。幕府の金蔵はすっからかん、地方は荒れ放題。お上はどこかで格好をつけなきゃならねえ。悪党狩りってのはな、いつの世も、一番安上がりの格好つけよ」 そのころ、街道を篠原宿へ向かう夜道を、笠をかぶった若い男がひとり歩いていた。腰の刀は道中用の一本だけ。ふところには幕府の正式な任務の書き付け。佐野伊織、二十六歳。役所の帳簿の上では、辰五郎は捕まえるべき悪党の筆頭だった。夜風が、遠くの欅の木をざわりと鳴らした。 五 翌日の昼、篠原宿にひとりの薬売りが着いた。江戸の薬問屋の売り子・伊之助——実は、佐野伊織の変装した姿である。取り締まりの前に、身分を隠して土地に入り込み、賭場と親分の様子をスパイするのが役目だった。 笠に道中差し、背には薬箱。安宿に荷を下ろし、翌朝から通りに立って店を広げた。商売は口実だが、口実は口実らしくやらなければならない。 橋のたもとで店を広げていると、河原から子供が二人上がってきた。兄のほうが、歩きながら宙に指で字を書いている。 「坊主。何を書いてる」 「字だよ。和尚さまがな、道ばたは紙より広いから、いくらでも書き損じていいんだと。月謝はいらねえんだ。そのかわり、おれが妹の飯を炊く」 「ほう。いい和尚さまだな」 「和尚さまじゃねえよ。話をつけてくれたのは、橋の親分だ。毎朝、握り飯も持ってきてくれるんだ」 佐野は手帳を出し、筆をなめた。江戸で写してきた調査書にはこうある。篠原の辰五郎、子分三十人あまり、宿場を縄張りにし、住民を脅して従わせている、と。 筆が止まった。住民を脅して従わせている男が、なぜ孤児に飯を運び、字を習わせるのか。筆の先から墨が一滴、白い紙に落ちた。佐野は手帳を閉じた。 夕方、傾いた古い橋のたもとに、真新しい立て札が立っていた。 ——来月一日より橋の架け替え工事。作業員募集。日当は当日払い。世話役、職業紹介・辰五郎方。 佐野は立て札の前に、長いこと立っていた。日が落ちて、字が読めなくなるまで立っていた。 六 工事の初日、佐野は作業員の列に並んだ。うわさの親分・辰五郎を、じかにこの目で確かめるためである。川に入り、古い橋げたを外し、石を運ぶ。半日で手のひらの皮がむけた。昼には河原で握り飯が配られた。作業員のぶんだけではない。見物に来た子供らにも同じ包みが回り、誰もそれを不思議がらなかった。 河原の上手から、上等な着物の男が歩いてきた。作業員たちがいっせいに頭を下げる。隣の男が小声で教えてくれた。 「篠原の親分だよ。この工事の金を出してるのも、あの人さ」 あれが辰五郎か——佐野は握り飯を持ったまま、目だけで男を追った。 「精が出るね、お客人。薬屋さんなんだってね。熊の胆(=高級な胃腸薬)はあるかい。蕎麦屋のおかみさんが長患いでね」 代金は言い値で払われた。男は佐野の手のひらへ、ふと目をやった。 「……いい手だ。皮のむけ方が、いい。二日目も来なさるかい」 それだけ言って立ち上がり、行きかけて、振り返った。 「薬屋さん。江戸はいま、桜は残ってるかね」 「……いえ。出てくるときには、もう葉桜で」 「だろうね」男は笑った。「江戸の花は、早いや」 男が去ってから、佐野は気づいた。いつ江戸を出たのか、とは聞かれていない。なのに「出てくるときには葉桜だった」——桜が葉に変わるのは、ほんの数日のことだ。つい先日、江戸を出てきたばかりだと、自分から明かしてしまっていた。 握り飯が、急にのどを通らなくなった。 その夜、手帳を開いた。調査書は、住民を脅す悪党を書いている。自分の手帳は、孤児に飯を運び、橋に金を出し、日当をきちんと払う男を書いている。書けば書くほど、二冊は別の男のことを書いているようになっていく。佐野は筆を置き、行灯の火を小さくした。手のひらの皮がむけたのを「いい」と言った男を、佐野は江戸でひとりも知らなかった。 七 橋げたが新しくなったころ、幕府の取り締まりのお触れが宿場に張り出された。博打打ち狩りである。 その晩、賭場は開かれなかった。蔵の中で、卯之吉が畳に手をついていた。ひたいの汗が、ぽたりと畳に落ちた。 「……面目、ございやせん。親分には内緒で、宿場役人の木島様に、二十両を。木島様は取り締まりの下調べを任されているお人だ。あの人に頼めば、名簿からうちの一家の名前を外してもらえると……」 木島は二十両をふところに入れ、その足で代官所へ訴え出た。博徒辰五郎一家、役人買収を企てる——絵に描いたような口実である。しかも木島は、かねてから海老屋に金を借りている仲だという。裏で糸を引いたのが誰かは、聞くまでもなかった。 「卯之吉。おまえ、なんで金を使った」 「そ、そりゃ、一家のためを……」 「違うね。おまえは、怖かったんだ。怖がるのは恥じゃねえ。おれだって怖え。けどな、怖いときに銭で闇を買おうとするとな、闇はいくらでも値をつり上げてくる。……二十両で買えたのは、縄にかかる口実だけよ」 「親分。あっしの首で済むなら、あっしが自首して」 「馬鹿野郎。……誰も死なねえ。誰も逃げねえ。もっといい手を、いま考えてる」 その「手」が何なのか、辰五郎はその晩、誰にも言わなかった。ただ夜ふけにひとりで蔵を出て、新しくなった橋を端から端まで、二度歩いた。月明かりの下で、橋板はきしみひとつ立てなかった。 八 三日後の朝、子分たちが集められた。賭場の道具は片付けられ、代わりに水盃(みずさかずき=今生の別れのときに酒の代わりに水で交わす盃)の用意がしてあった。 「今日限り、篠原の一家は解散する。賭場は店じまいだ。おまえたちにはな、ひとりひとり、行き先を用意してある」 卯之吉が配ったのは、就職先を書いた帳面だった。三十人の名前の下に、三十のまっとうな働き口。一晩や二晩で書ける帳面ではなかった。 「親分……あっしらは、それじゃ、親分は」 「おれは貸元(かしもと=賭場の主人)だ。貸元ってのはな、貸したものの、最後の取り立てまでが商売よ」 それ以上は言わず、盃の水を飲みほした。三十人が、順に盃を受けた。泣く者には、泣かせておいた。 昼過ぎ、役人の一行が宿場に入った。捕り方の列に、佐野伊織もいた。黒い羽織に十手。橋の工事で皮のむけた手のひらに、捕縛用の縄が乗っていた。 欅の木の下の家の前に、辰五郎はひとりで立っていた。いつもの着物、いつもの帯。捕り方に囲まれても、まるで祭りの見物でも迎えるような顔で、静かに両手を前に出した。 「篠原宿の辰五郎。おとなしくお縄につきやす」 縄をかける段になって、辰五郎は縄を持つ男の顔を見た。 「……おや。薬屋の旦那。熊の胆、よく効きましたぜ。おかみさん、床上げ(=病み上がりの回復)しなすった」 佐野は立ち尽くした。辰五郎は自分から手首をそろえ、低い声で言った。 「お上の改革で悪党が減るんなら、それも結構。けどな旦那、あっしが消えたあと、あの橋と孤児の飯は誰が見なさる」 佐野は答えられなかった。答えの代わりに縄をかけた。ただ、その結び目が決まりの型より一結びゆるかったことは、佐野のほかに誰も知らない。 引かれていく列を、宿場の人々が通りの両側から黙って見送った。豆腐屋の六助は天びん棒を下ろして地べたに座りこみ、蕎麦屋の宗助は、列が見えなくなるまで深く頭を下げ続けた。 橋のたもとまで来たとき、河原から留吉が駆け上がってきた。捕り方が突き飛ばそうとするのを、役人が目で止めた。留吉は縄をかけられた男の前に立ち、何か言おうとして、言えず、ただ突っ立っていた。辰五郎は歩みを止めず、すれ違いざまに一言だけ残した。 「日向を歩け」 列は橋を渡っていった。新しい橋板は、大人数が渡っても、きしみひとつ立てなかった。 九 それから四年後の秋。出世した佐野伊織は、仕事の道すがら、篠原宿に立ち寄った。 橋は、立派に架かっていた。欄干に手を置くと、乾いたいい木の音がした。橋板は歩くたび、とん、とん、と鳴った。荷車が二台、すれ違って渡っていく。 昼どきの武蔵屋は客が店の外の縁台まであふれ、かけ蕎麦は十六文から二十文に値上がりしていた。板場には宗助と、息子らしい若いのが並んで蕎麦を打っていた。通りには真新しい桶屋の看板。海老屋のあった角は、小間物屋(=化粧品や小物を売る店)に変わっていた。 聞けば、二年ほど前、役人の木島が賄賂の悪事で罷免(=クビ)になり、金の流れを調べられたとき、海老屋の悪どい貸し付けも明るみに出たのだという。町の者は誰も海老屋から金を借りなくなり、店をたたんで、夜逃げ同然に宿場を出ていったらしい。 正覚寺の境内では、十五、六の若者が子供たちに字のお手本を書いてやっていた。道ばたは紙より広い、と言った子供の顔が、そのまま大人になりかけていた。 親分が引かれていったあの日から、兄妹の飯は武蔵屋が引き受けたのだという。桶屋が着物を、豆腐屋が味噌汁を持ち寄り、和尚は変わらず字を教え続けた。兄の留吉は、のみ込みがずば抜けて早かった。寺に住み込みで働きながら学びを続け、いまでは和尚の右腕として、子供たちに教える側に回っている。 若者はじっと佐野を見て、軽く一礼し、手習いに戻った。 夕暮れ、宿場は明日の秋祭りの準備でにぎわい、軒先に提灯が並び始めていた。佐野は帰り道に、もう一度橋を渡った。 渡りきったたもとの石の上に、酒が一本、供えてあった。むき出しの徳利に、野の花が一枝、添えてある。供えた人の名前はない。徳利の肌は乾いていて、置かれてからまだ間もない。誰が、誰のために置いたのか。聞いて回る野暮を、佐野はしなかった。 佐野は立ち止まり、笠を取って、頭を下げた。誰に、とは言わなかった。通りすがりの町の人が二、三人、不思議そうにこちらを見て、そして誰も、何も聞かなかった。 欅の枝が、ざわりと鳴った。佐野は笠をかぶり直し、江戸への道を歩き出した。橋板が、とん、とん、と鳴った。 ( 了 )
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