日常 | 文字数: 1318 | コメント: 0

離婚届

熱くて濃いブラックコーヒーが食卓に並び、いよいよ話し合いが始まる。 寝室では、産まれて5年が経つ息子が寝息を立てている時間だ。 目線の先には離婚届があり、もうそこには、妻の名前が書かれている。 恐らく、というか、絶対、今日この場で私もサインするのだろう。 なぜこのような結果になったのかは、分かっている。
 息子が生まれて5年。家庭を顧みず、仕事を第一優先として、日々を暮らしてきたからだ。
 妻の育児に対する嘆きも上の空で聞き流し、息子の面倒は全て押し付け、たまの休みは家で寝ているか、上司の接待ゴルフ三昧。付き合いとあらば、キャバクラにも出向いていた。
 帰宅するのが0時を回るのはざらだった。 
そして遂に、妻の堪忍袋の緒が切れた。 妻と出会ったのが13年前。 その時は既に今の会社に就職していて、気晴らしにと先輩が誘ってくれた合コンで出会った。 私は合コンというものは得意ではなく、先輩が女性陣を楽しませるのを、静かに酒を飲みながら眺めていた。 
そんな中、おろおろと目配せしている女性がいた。
 それが今、向かいに座って離婚の話をしている、妻だった。
 話によると、今回が初の合コンで、何をしていいのか戸惑っていたらしい。 そんな女性に心を惹かれた。
 その日の合コンは、連絡先だけ交換し、別れた。
 メールを数回やり取りし、出会った日から2週間後、2人だけで会うことになった。
 その日に告白し付き合うこととなり、それから3年後。結婚することとなり、結婚して5年後、やっと子どもを身籠れた。
 産まれた瞬間、とてつもない喜びに、心が張り裂けそうになったほどだ。 しかし、今、離婚話をしている。
離婚話が沈黙を告げると、寝室から息子が起きてきた。 「起きたの?」と妻が先ほどまでと打って変わって、明るい声で息子に話す。
 「何しているの?」目を擦りながら、純粋無垢なその質問にあたふたして、答えをあやふやに返す。
 そして、子どもの直感は恐ろしいものである。何を思ったのか急に私に向かって「どこにも行かないでね」と言ってきた。
 私は目を丸くし、離婚届に目を移した。
 息子に近付く。久々にまじまじと息子の顔を見た。 
息子の頭に手を乗せて「何、言ってる。パパはどこにも行かないよ。これから先、ずっと一緒だ」と、完全なる嘘を吐いてしまった。 息子の澄み切った瞳に映る自分を見て、はっとする。 
「もう遅いから寝なさい」と妻の忠告に従い、トイレに言ったあと、寝室に戻る。
 寝室のドアが閉まるのを確認し、妻に精いっぱい謝った。土下座までした。 妻は自分に対する不満を全て吐きだしたせいか、離婚話を持ち出す前よりかは、顔が随分とすっきりしている。
「分かりました。今回は許します。ですが、またこのような話になりましたら、必ず書いてもいらいます」
妻が丁寧口調になるときは本当に憤りを感じているときだが、何とかこの場は収まった。 こうして今もなお、有効期限のない離婚届は箪笥の中に静かに眠っている。 そして今日、私たち夫婦は、銀婚式を迎える。

コメント

コメントはまだありません。