日常 | 文字数: 1004 | コメント: 0

線香を嗅ぎながら

「くそあつい!」  一声叫んで、叔父さんは学生服のまま畳に倒れ込んだ。  制服。日焼け。傷んだ鞄。  毎夏帰省するたびに、ぼくはこの、さほど年の離れていない叔父を見る。  去年より、すこしだけ背が伸びたようだけれど、ぼくはもっと伸びているから、身長差はすこし縮んだくらいだ。  叔父さんは高校二年生で、そろそろ進路を決めないと、と言われているのをきのう聞いた。  叔父さんは、叔父さん、と呼ばれると、絶妙に嫌な顔をする。 「ねえ」  あぶらぜみとかいう蝉が、じいじいと空気を震わせる。 「なんだ」 「麦茶、飲んでいい?」 「いいけど俺のもくれると嬉しい」 「分かった」  勝手を知らない親の実家で、ぼくは叔父に麦茶を出した。  叔父さんは景気よく喉を鳴らして一気に飲み干した。 「別に麦茶くらい勝手に飲んでも誰も怒んねーぞ」 「でも一応」 「ガキが遠慮してんな」 「叔父さんはひとの家に行かないから」  あ。  でも、お兄さん、と呼ぶのも、何かが違う気がしたし。  ほう? と言いたげに持ち上げられた眉を確認して、ぼくは困った顔をしたと思う。 「慎」 「はい」 「おれはお前を慎っつーだろ。お前もおれを七彦って呼べばいい」  しちひこ。  そのすこし変わった名を呼ぶことに、なんとなく、ほんとうになんとなくだけれど、照れがあって。  だってその響きを、ぼくはとても好きで仕方がなかったものだから。 「……七彦叔父さん」 「いい加減にしねえと怒るぞまじで」  照れから逃げ続けるのは、そろそろやめたいのに。 「くっそ老けた気になるからやめろ」 「七彦さん」 「それもなんかな」 「七彦兄さん?」 「おう分かった、さん付けが嫌みてえだ」  どうしろと。 「…………にーちゃん」 「それだ、気取りがなくていい」  いちどきに距離が縮まってしまったようで、半ば自棄でひねり出した、にーちゃん、という呼び方は、二度としなかった。  けれどそれから叔父さんは、ぼくに対して、にーちゃんが、にーちゃんは、にーちゃんがよ、と言うようになってしまった。  あれから六十年経ったけれど、あのころの叔父さんの、にーちゃん、と己自身を呼ぶ声音は、今でも鮮明に思い出せる。  ぼくはあのときの他に、誰かを、にーちゃん、と呼んだことはない。

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