日常 | 文字数: 1875 | コメント: 0

バス


 赤く焦げた空に烏が鳴く。住宅街から染みる懐かしい匂いは誰の帰りを待っているのだろうか。雨は数日降っていない。乾いた空気は暑い訳でも涼しい訳でもなく、ただ心地良く肌に触れる。
 錆びたバス停の前で立ち止まると、すぐにバスが現れ、扉を開けた。それまで車の往来など全くなかったというのに。もしかしたら、呆けているうちに何分も経過していたのかもしれない。目の前を何台も車が通過していたのかもしれない。そんなことを考えながら、また呆けて空を見つめた。焦げた空は深い黒に変わっていた。車内に閉じ込められた僕と、窓に張り付いては飛んでを繰り返す羽虫。僕以外に乗客はいなかった。
 聞き取りづらい車掌の声がして、バスは停車した。学習塾の前だった。バス後部の扉が開くと、学ランの坊主頭が三人、整理券をとって乗車してきた。わいわい。がやがや。与太話。ああ、僕は全くの別次元に迷い込んだというわけではないんだな。そう思うと少しほっとして、でもほんの少し寂しくなった。
 学ラン三人は僕より前方の座席に並んで座った。座席はバスの中央に向かっているので、三人の顔が良く見えた。僕から見て一番手前、一番左に座る、ぎょろりとした丸い目の少年が言った。
「ヤマザキの家にさ、俺、忘れ物したみたいだよ。昨日帰りに寄った時」
「本当かよ?うちには何もなかったぜ」
 反応したところを見ると、真ん中の少年がヤマザキの様だ。乗車してくるときは気が付かなかったが、彼一人だけ頭一つ分背が高い。自然と、他の二人を見下ろす格好になる。
「ヤスダの家じゃないのか。一昨日、寄っていただろう」 ヤマザキは体を動かさず、首だけをぐるりと反時計回りにまわして隣の少年に言った。
 右端の少年はヤスダとわかった。ヤスダは耳が大きく額に皺がある。猿に似ている。口を尖らせて話すのが癖になっているらしく、口を開くとヤスダは更に猿らしく見えた。
「俺の家にも無かったと思うがなぁ。だいたいヤマダは鞄から何も出さなかったじゃないか」 そうか、忘れ物をしたのはヤマダなのか。
 左端のギョロ目、もといヤマダは自らの背負い鞄を漁り始めた。くしゃくしゃと紙が皺を作る音が聞こえる。あ、とヤマダは声を漏らした。
「ああ、ごめん、勘違いだったみたいだ。あったよ」二人に向き直ってヤマダははにかみを見せた。
「ほらみろ」「そうだろう?」ヤマザキとヤスダは声を揃える。
 二人が溜息を着いたところで、ベルが鳴った。バスの車内の至る所に設置された降車ボタンが一斉に赤く点灯する。降車します。降車します。降車します。ボタンを押したのは一人だけなのに、その光はまるで車内全員の総意のを表しているかのように見えた。
「やあ、着いたみたいだ」猿顔のヤスダが言った。
 その時初めて気が付いたが、バスの乗客は僕と学ランだけではなくなっていた。一人、二人、いや、十人、二十人、座席は全て埋まっていた。何故気が付かなかったのか、大体いつ乗車したのだろう、そもそもいつ停車したのだろう、さては初めから皆乗っていたのか。それとも、僕が呆けていたからだろうか。
 ゆっくりとバスのスピードが落ち、仄暗い住宅街のバス停の前で止まった。先ほどの学生三人が立ち上がると、バス前方のドアが開いた。
「そういえば何を無くしていたんだい?」
「中指。見つかってよかったよ」
「ああ、なんだ、てっきり鍵でも無くしたのかと思ったよ」
「僕も実はこないださ」
 学生三人がわいのわいのと話しながらそれぞれ料金箱に小銭を放り込んで降車すると、後に大きな荷物を持った老婆、イヤホンをぶら下げた青年、スーツ姿の男が続いて降りた。ここはどこなのだろう、バス停の文字を読むと、僕の実家の近所だった。再び動き出したバスの中は、人が減って少し涼しくなった。
 外の景色は数分前と変わっていない。星もない、深い黒のままだった。大通りに沿って門を構える店の数々と、信号の明かりが眩しい。車掌がまた籠った聞き取りづらい声で地名を告げた。聞き覚えがあるように感じて、ボタンを押した。僕の意が総意となった。学生が降りたときよりも更に人は減っていた。
 緩やかに速度を落としたバスは、見覚えのある町並みを窓に映して停車した。降りるのは僕だけらしい。運賃がわからないので千円札を2回畳んで料金箱に入れた。運転手がなにか言った気がしたが、もう一度聞き返す前に扉が開いた。生ぬるい湿気と醤油の臭い。凭れた金属の手すりがやけに冷たく感じた。

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