日常 | 文字数: 1160 | コメント: 0

ものすごい犬

港のほうから、ものすごい犬が歩いてきた。 人々はみな、あっけにとられた表情で、ものすごい犬を眺めた。 なぜって、その犬がものすごかったからだ。 ものすごい犬は、毅然とした面持ちで、街のメインストリートを闊歩した。 晩秋であった。すべてのものがやがて来る冬の気配を漂わせ、首をすぼめていた。 風はときおり、樹海とつららにまつわる昔話を人々の耳に届けた。 海はときおり、遭難事件の統計をまとめ、人々に注意をうながした。 喫茶店では、別れ話をするカップルがいた。 窓越しにものすごい犬を見て仰天した彼らは、自分たちが何を話していたか、すっかり忘れてしまって、手をつないで家に帰った。 寺院の壁にペンキを塗っていた男は、ものすごい犬を見てインスピレーションが冴えわたり、寺院をピンク一色に染めた。 スクーターにのった老人は、ものすごい犬を見て、遠くに住む孫に大きな鱒を送ろうと心に決めた。 負けの込んだ若いボクサーは、ものすごい犬を見て、遺伝子の研究者へと転職した。 丘では、貧しい一組のカップルの結婚式が、つつましやかに行われていた。 鐘がなる。友人たちが、手をつないだ新郎と新婦にフラワーシャワーを浴びせている。クリーム色のバラの花と、はにかんで眉が九十度傾いた新郎の表情。 そのすぐそばを、ものすごい犬が通り過ぎた。誰かが言った。 「ふたりは永遠の幸福を手にするだろう!」 空には銀色の光彩をはなつ鰯雲が領していて、ときおり、遠い国でおこった戦争の顛末を人々に語りかけた。勇敢な者が先に死んでいった。人がたくさん住んでいる街の中心部に爆弾が落ちた。出会いと別れ。 かくいう私もあの日、空から降ってきた爆弾の鈍い光にさらされ、いくつかの別れを体験した人間のひとりだ。 そして、それからずっと後、この海辺の街にて、ものすごい犬に出会うという僥倖にあずかった人間のひとりでもある。そういうものだ。 その日、ものすごい犬を見た人々は、家に戻るやいなや、ものすごい犬を見ることが叶わなかった家族に、いかにその犬がものすごい犬であったかを滔々と語って聞かせた。 素晴らしい一日だったのだ。 翌日、きのうの犬がふたたび港から歩いてきた。 しかし、彼はもう、ものすごい犬とは言えなかった。 なかなかいい線いっている、しかしながら、ものすごいとは言えない犬だった。 でも街の皆は落胆しなかった。 いい線いっているがものすごいとは言えない犬は、昨日と同じように毅然とした面持ちでメインストリートを闊歩し、人々は、そのものすごいとは言えない犬の姿を、ほほえましく眺めるのだった。 そして、銀色の雲は、今日も遠くの空で戦争がはじまり、遠くの大地で戦争が終わったことを、街の皆々に伝えた。

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