日常 | 文字数: 1053 | コメント: 0

されど空の青さを知る

井の中の蛙大海を知らず、何度この言葉を言われたかわからない。

否定はしなかった。できなかった。俺にあったのは井戸の底より狭いこの厨房だけだった。

まだ暗いうちから起きて、粉を運び、湿度計とにらめっこしながら仕込みをする。

遅れて他の従業員がやってくる。ねぎを切ったり出汁を準備をしてもらっている。

誰に教わるでもなく親父のみようみまねの麺の仕込みをする。

親父はもう何年もベッドから起き上がれていない。

いつか食べた親父のうどんの味はもう思い出せない。

思い出せるのは昨日食べた自分の麺の食感だけ。

井の中の蛙大海を知らず。

この店のやり方以外は知らない。

他の店のうどんと比べることもしない。

比べるのはガキの時分に食べたであろう、記憶の中の朧気なうどんと過去の自分のみ。

籠るように潜るように、ただ深く自分だけと向き合う。

粉に塩水を数回入れる。今日の湿度だとこのくらいだろうか?

教科書に書いてあればいいのに。

そんなものないからノートにその日の温度と湿度を書いて水の分量を書いて一から計っていた。

そのうちそんなこともしなくなり、感覚で水を入れるようになった。

空気を並べく入れないようにゆっくりと入れる。

ほんの少しだけ粉っぽさが残るまで入れ、そしてこねる。

テレビで踏んでいるのを見たことあるが。そのほうがよいのだろうか? 

でも親父は手でこねていたのだ。

その背中を確かに見ていた、はっきりと思い出せないけど。

だから手でこねる。

聲が耳の中で反響する。

「○○ではこうしていたよ」「他ではこうだったな」「あの店と比べるとどうだろうな」「親父さんのうどんはもっとうまかったな」

もしかしたら、他の店の技の中に答えがあるのかも?

間違ったやり方なのかも?

不安で不安で死にたくなる。

昨日の俺も一昨日の俺もずっと不安のまま。

それでも、親父の残してくれた厨房とその姿の中に答えがあると思うので。

今日も必死やっています。

塩・水・粉、こいつらと俺と厨房、それだけの閉じられた世界。

井の中から出るつもりはない。

比べるのはガキ頃に、世界一旨いと心から信じたあのうどんのみ。

井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る。

見上げるしかできないからこそわかることもあると信じている。

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