旧同タイトル | イベント: 同タイトル | 2017年10月 | 文字数: 2002 | コメント: 0

あなたの好きな世界

海に行きたいと、姉ちゃんは言った。 * * * 「海って……今?」 「そう、今、海に行きたい。幸弘ってもう免許取ってたでしょ?連れて行って?」 作家をしている姉の亜紀は、時折突拍子もないことを言い出す。 今回は、さて夕食は何にしようか、と冷蔵庫の中を漁っていた瞬間のことだった。 「……良いけど、寒いよ?」 「寒いから、良いのよ」 分からないなぁ、と言いつつ、冷蔵庫を閉めて外出の準備をする。 今年は寒くなるのが例年より早くて、もはや秋の順番を飛ばして冬が来たような感覚だった。 「ちゃんとコートとかマフラーも持って行くのよ?きっとそうとう冷えるから」 「言われなくても。エンジン温めてくるね」 海辺まで行くとなると、それこそ真冬のような寒さが待っていることだろう。 エンジンをかけて、車内の空調を暖房にする。こいつはいざというときの寒さシェルターになることだろう。念入りに温めておかなければ。 「あ、幸弘。コンビニ寄ろう?肉まん買いたい」 「自由だなぁ。了解、了解」 海に行く前にコンビニで肉まんを2つ購入。上京するまで知らなかったけれど、関東のコンビニでは肉まんに酢醤油がつかない。 「不思議よね、同じ日本なのに」 「関西の方が調味料の発達が早かったから、だっけ?」 「諸説あるけどね。…せっかくだし酢醤油を別に買っちゃおうか?」 「ダメだよ、予算オーバー」 予算なんてものは無い。 海辺は予想通り、いや予想以上に寒かった。肉まんの入ったレジ袋を頰に当てて暖をとる姉ちゃんを見て、コッソリと真似をする。 「カイロって、食べられるようになったら良いと思うのよ」 「また、唐突だね。どうして?」 「だって使った後は捨てちゃうでしょ?勿体無いなぁっていつも思ってた。でね?この前コンビニで肉まん買ったときに思いついたの」 「肉まんみたいに食べちゃえば良いんじゃないかって?」 その通り、と言わんばかりの表情で、姉ちゃんは僕を指差す。 「原理的に無理じゃない?」 「そこはまあ、理系の偉い人に頑張ってもらって…」 「うわぁ、すごい他力本願」 海に着いても、姉ちゃんは何をするでもなく僕と話している。他愛ない会話をするだけなら、わざわざ海に来なくても自宅で事足りるだろうに。 流石に寒くなってきた。 「そろそろ車に戻らない?寒くなってきたのですが」 「うーん、肉まん食べてから」 おー、ほっかほか。と肉まんを取り出す姉ちゃん。指が寒さで少し震えているというのに、それでも海風に身をさらすつもりだろうか。 「車の中でゆっくり食べた方がいいと思うけどなぁ」 「寒い中で食べることに意味があるのよ。コタツの中で食べるアイスと同じ」 「ロマン補正?」 「そんな感じかなぁ」 はふっはふっ、と肉まんを頬張って、ずいぶん美味しそうに食べている。僕も促されるまま肉まんを口に運んだ。 「この寒さもネタにするの?」 「したいなぁ。この肉まんの美味しさを読者に伝えたい。私、基本ファンタジー書かないからきっとみんなマネするよ」 「社会現象になっちゃうね。『冬の海に行くという奇行が大流行』」 「その勢いで風邪が大流行しちゃうと私の責任になっちゃうのかな。やっぱり書くかどうかはちょっと保留で…」 肉まんを食べ終わって、ふと海を眺める。まだ肉まんの熱が体内に残っているからだろうか、少しの間冷たい潮風が心地よく感じた。 「……そういえば、さ。姉ちゃんはどうしてファンタジーを書かないの?」 「どうしてって?」 「読んでる本は大体ファンタジーだったじゃん。てっきり書く本もファンタジー系になるのかと思ってた」 あぁー…そのことか、と言ったようにクスリと笑って、姉ちゃんは残った肉まんのカケラを口に放り込む。 「……この世界が、好き過ぎるからかな」 「世界が?」 「ファンタジーを書いてる人が現実嫌いだぁって言いたいわけじゃないんだよ?単に、私が現世オタクなだけ」 ものすごい言葉が飛び出てきた。現世オタクって…… 「この世界にはさ、面白いことと、楽しいことが思ってるより転がってるものなのよ。現に、今こうして寒い海辺で悠々と肉まん食べてるのも楽しいでしょ? 寒いよーって言いながら熱いもの食べるって、くだらないけど楽しくて、幸せな気分になる。 そういうところが大好きだから、きっとファンタジーまで手が伸びないんだね」 「楽しくて…幸せ……」 自分が今、まさにそのくだらなくて面白いことをしていることに、改めて気がつく。 姉ちゃんの誘いを断ろうと思えば簡単に断れただろう。元々この人は押しの強いタイプなわけではない。 それでも僕がついて行ったのは、僕が、姉ちゃんの好きな世界が大好きだからかも知れない。

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