あなたの好きな世界
初めてドラゴンに出会ったのは、小学生の時だった。 ある日、先生に連れられて公園に行った俺たちは、何が起こるかも知らされないまま、草地の側に並ばされた。春のうららかな日で、空は抜けるように青かった。 すると公園の向こうにあったビルの背後から、何かがこちらをめがけて飛んできた。ハンググライダーかと思ったが、違う。光沢のある緑のうろこに覆われた巨体、コウモリのものに似ているが、その何倍も大きな膜状の翼。 ドラゴンだった。 そいつがものすごい速さで俺たちの頭上を通り過ぎて、突風が吹いた。 ドラゴンは方向を変え、悠々と旋回すると、やがて俺たちの前に降り立った。翼を立てて速度を殺し、空気を打つように三度羽ばたいた。両手を揃えて着地すると、ゆっくりと頭をもたげた。目と目が合った。 鋭い光を湛えた金色の瞳。 そのとき将来の夢が決まった。いつか必ず、ドラゴンに乗って飛ぶのだと。 それから十年後、高校を卒業した俺は、株式会社飛竜という運送会社に就職した。この会社は荷物の集配にドラゴンを使っていたから、ここで修業を積んで、ドラゴンライダーを目指すつもりだった、のだが。 初出勤の日、自己紹介を終えると、先輩社員のアオイさん――青いつなぎを着た細い目の女性で、なんだかお茶目そうな人だった――が、申し訳そうな顔で言った。 「初日から悪いけどさ」 「はい」 「うち、ドラゴンいなくなっちゃった」 「えっ? ええーっ?」 そんなの聞いてない。 「それじゃ五月雨は? ライダーの速水さんは?」 五月雨は翼幅十二メートルを誇る巨大なドラゴンで、俺がこの事業所を志望したのは彼女に会うためなのだ。 「なんで? 飛ばされたんですか?」 「飛竜だけに」アオイさんがくくく、と笑ったが全然笑えない。 「なんか悪いことしたんですか!」 「話せば長くなるんだけどさ。君、とうかびんってわかる?」 「投下便ですよね。滑空しているドラゴンから、パラシュートをつけた荷物を投下して配達する方法です。ドラゴンって大きいから、なるべく離着陸したくない、それで開発された方法です」 「そうそう。じゃ、デメリットは?」 「パラシュートの回収とリサイクルに費用が掛かることと、配送先で集荷ができないことです」 「合格。パラシュートを回収しに行くんだったら、トラックなり船で配達したほうが早いじゃん、ってことで、陸のほうじゃ、投下便は緊急用として使われることが多い。ただ、このあたりは島が入り組んでいて、船だけじゃカバーできない島も多いから、飛竜便の需要がまだあるんだよね」 そう、だから俺はこの満島諸島営業所に志望したのだ。飛竜便は、交通網の発達に押されて衰退しつつある。そんな状況でも、この事業所ならまだ望みがあると思った。 話し込む俺たちを横目に、大勢の人と荷物が事務所を出入りしていく。主力の五月雨と速水さんがいない中で、この物資をすべて捌くことができるんだろうか。 「それで、投下便と転勤に何の関係が?」 アオイさんがいたずらっぽく笑う。またテストだ。 「ツバサ君、投下便のデメリットを帳消しにできる配達物があるんだけど、わかる?」 「パラシュートがいらないってことですよね……土砂、とか?」 アメリカで起きた山火事の映像で、ドラゴンが森に消火剤をばらまく場面を見たことがある。 アオイさんは首を振った。 「建物の残骸なんだ。例えばさ、山奥のホテルや別荘が古くなって、それを取り壊したとするじゃない? 普通だったらトラックで運ぶけど、山奥だと車を往復させるだけでひと手間だよね」 「ドラゴンなら、山も簡単に超えられる」 「そ。ゴミならパラシュートなしで処理場に投げ捨てても問題ないし、粉砕の手間も省けて一石二竜ってわけ。実は東のいくころ山の別荘群が建て替え時期になってるみたいで、それで大量の廃棄物を運送してほしいっていう依頼が来てるんだ」 「それで転勤ですか」 「うん」 儲け儲け、ビジネスチャンス、と朗らかにほほ笑むアオイさんを見ても、気分は晴れなかった。 「ドラゴンを使ってやることが、ごみの廃棄」あこがれの仕事だったのに。 「これもドラゴンにしかできない大事なお仕事だよ」 「速水さんは満足してるんですか」 「彼はあの仕事をこう呼んでいます」 「なんですか」 「特急爆撃便。楽しんでいるみたいよ」 ため息を抑えきれなかった。 そんな俺を見かねてか、アオイさんはこう言ってくれた。 「がっかりさせてばかりじゃかわいそうだ、おいで、いいもの見せてあげる」 アオイさんに連れられて、事務所前の広い空き地にやってきた。大きな箱が一列に並べられている。真ん中に他の箱とは形が違うものがあり、それがアオイさんの目当てらしい。 近づいてみると、それは箱というより、かごと言ったほうが正しかった。 「これ、気球のかごですか? でも気球がない」 かごの高さは俺のお腹くらいまであり、側面に小さな戸がついていた。アオイさんに促されて中に入ると、彼女も中に入って、戸を閉める。 「ほい、ヘルメットと命綱」 事業所から先輩方がやってきて、並んだ箱を点検し始める。 「見て」 命綱をかごに取り付け終えたアオイさんが、事務所の屋根を指さした。妙なものが見えた。 最初に見えたのは、空に浮かぶ赤い航空灯だった。そこから、白いケーブルがだらんとぶら下がっていて、それがふわふわと漂いながら事務所を超え、こちらへと近寄ってくる。空飛ぶクラゲを連想したが、そんなものはいない。 「ケーブルが、浮かんでる?」 「あー、だめかー」と言って、アオイさんが顔を手で覆った。「見えなかったか」 「え?」 「あれね、心が綺麗じゃないと見えない生き物」 「えっ、えっ」目を凝らしても、生き物など見えない。暮れ始めた空が見えるだけだ。 すると側で箱を点検していたおじさんが笑った。 「アオちゃん、新入りをからかっちゃかわいそうだ」 「ちゃんと種明かししますって」 「タネ?」 「さてここで問題」とアオイさん。「すごく大雑把な分類でドラゴンと呼ばれるもののうち、翼を持つものを何と呼ぶ?」 なんで“大雑把な分類”を強調したんだろう、と思いつつ答える。 「有翼種です」 「五月雨は有翼種だね。翼がないものは?」 「無翼種」 「その特徴は?」 「東洋型、蛇型とも呼ばれ、その姿は九似で表現されることが多いです。角は鹿、顔はラクダっていうやつ。あと、あまり知られてないんですけど体表の色を変化させて隠れることができ、そのため近代になるまで実在しないと、あっ」 アオイさんがにやにやと笑っている。嘘だろ? 「こいつは、東洋型……!」 「そう、龍です!」 見上げると、こんどははっきりと見えた。すらりと伸びた胴体と、それを覆う透明な鱗。あたりの景色を反射しているのか、それとも裏側の色を透過させているのかはわからないが、いると思って見なければ見逃してしまう。今は、龍の胴体からいくつものケーブルがぶら下がっているので、輪郭がかろうじてわかる。 頭部から延びる雄々しい角と髭。龍が首をかしげて、こちらを見た。 知性の宿る空色の瞳。 体が震えた。 空が真っ赤に燃えていた。 いつの間にかケーブルと、かごの接続を終えたアオイさんが「離陸用意完了!」と叫び、監督者から「離陸開始!」の指示が出る。 龍が上昇をはじめ、俺たちを乗せたかごが地面を離れる。 「紹介しましょう!」 アオイさんが両手を広げ、誇らしげに叫んだ。 「わが営業所が誇る、ニホンオロチの狭霧であります! 彼は翼がないのに飛ぶことができるんです。浮遊しているって言ったほうが正確かも。 ドラゴンが飛行機だとしたら龍は飛行船。速度ではドラゴンに叶わないけれど、航続時間と荷下ろしのしやすさではこっちが圧勝ですね、われらが五月雨不在の間、満島諸島の定期便を担当してもらうことになりました!」 「って、アオイさん、ドラゴンはいなくなったって言ってましたよね」 そこで無線が入った。渋い男性の声が言う。 『おい、アオイにその話を振るのはやめろ』 「はい?」 『ドラゴンと龍の違い。長い話になる。龍の尾よりも長い……』 「今はしませんってば」べー、っと無線に向かって舌を出すアオイさん。 龍はぐんぐん高度を上げてゆく。 社屋の屋根が下に見え、人が、建物が、道路が、どんどんと小さくなってゆき、やがて海が見えてきた。沈みゆく太陽が投げかける光の中で、いくつもの島々が輝いている。 抑えようもなく胸が高鳴った。 海風に吹かれながら、先輩社員が手を差し伸べてくる。 「ようこそ、株式会社飛竜へ!」 新しい生活が、こうして始まった。
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