日常 | 文字数: 1145 | コメント: 0

ひかり

「夜明け前の、いっとう明るい星が合図だ」

闇夜のなかでセリムが言う。国境警察の、見張り番の交代のタイミングを見計らい、セリムを中心とした年長のグループが、ぼや騒ぎをおこす。それに乗じて国境を越えるのだ、と。

漆黒の木立に小さな身を潜ませながら、アレクサンドレは、内戦がはじまる以前、父と母に連れられていったドゥラスの映画館に思いを馳せる。エントランスに敷き詰められた固い臙脂色のカーペットを踏む足の感触。そして光と闇を隔てる大きく重い扉。幼いアレクサンドレは、そのときに観た映画がどんなものだったのかを覚えていない。ただ、生き別れになった父と母、そして兄との思い出として、映画館を訪れた記憶をいくども反芻している。すえたような黴の匂いと人いきれ。客席のあちらこちらから、さざ波のようなひそひそ話が少年のもとに打ちよせる。人々は密やかな愉しみに興じている。アレクサンドレはふと、不安を覚える。闇のなかで、自分の隣にいるのは、はたしてほんとうの兄か。父と母は、ほんとうにそこにいるのか。兄の名前を呼ぼうとしたつぎの瞬間、背後からひとすじの光が放たれる。海はもう、観客席から消え失せている。人々はひそひそ話を中座し、いまや一心に光の放たれた先を凝視している。映画がはじまる。いくばくかの不安を抱えたアレクサンドレを、光が導く。

「どうした、アレクサンドレ、行け、はやく行け!」

我に返ったアレクサンドレの隣には、父と母、兄ではなく、孤児集団のリーダー、セリムがいる。アレクサンドレは、慌てて今夜すべきことを思い出す。ぼや騒ぎで警官の注意が逸れたときを狙い、国境をこえる。ギリシアに入ったら、難民孤児たちが隠れ家にしている、森の廃屋へと行くのだ。高鳴る心臓の鼓動が、闇に少しずつこぼれてゆく。

「セリムは」

「俺は大丈夫だ、行け、アレクサンドレ!」

セリムはこうやって、混乱と暴力に満ちた地獄から、何人もの孤児を外の世界へ逃してきた。彼に従えばすべて上手くいく。やせっぽちだが、勇敢で、頼りになるセリム。どうか無事で。アレクサンドレは急いでセリムの元を去る。藪の中を這いつくばって進むと、今夜、ともに国境をこえる孤児たちがいる。

「ギリシアにも犬はいるかな?」

ひとりの少年が追いついてきたアレクサンドレに囁きかける。

「いるさ、スピロ。たくさんいる、たぶん」

「よかった。ぼくは犬が好きなんだ」

安堵の表情を浮かべるスピロ。孤児たちははまるで羊のこどものように身を寄せ合い、きれぎれの白い息を吐き出している。やがて、東の空にセリムの言っていた合図の星があらわれる。

金星。明けの明星。ひかり。

コメント

コメントはまだありません。