旧祭り | 文字数: 2801 | コメント: 0

月とシャンパン

「月がきれいだな」

高校からの帰り道、隣で自転車をこいでいた幼馴染みの古木 遼がいきなりそう言った。
私は辺りを見回したが、空は鮮やかな赤に染まっているだけで月は浮かんでいなかった。

「どこに月があるの?」

私がそう尋ねると遼は僅かに悲しい顔をして、私の額にデコピンした。

「まだ夕方だぜ、月なんてまだ見えねえよ」
「遼がそう言ったんじゃん」

そんな私の声は加速した遼に届くはずはなかった。私のずっと先を走っている遼は陽炎で揺らいで見えた。何故だか私の心がズキズキした。

それから青々と生い茂っていた葉が紅く染まり、次第に空気が冷たくなっていった。そして、枝先のつぼみが少しずつ膨らみ始めた頃、私たちは3年生に進級した。私たちの高校は全国でも珍しく3年になると100近くある専攻の中から1つ選び専門的に学ぶのだ。私は両親が薬剤師ということもあり薬学専攻、遼はパティシエになるという夢を叶えるために製菓学専攻に進むことになった。
専攻が違えばもちろんクラスや下校時間に差が出てくる。そうなると近所に住んでるとはいえ会う機会も減っていき、高校を卒業するとお互いに連絡さえも取らなくなってしまった。

ー6年後。
大学卒業と同時になんとか地元の薬局に就職することができ、2年が経ったある春の日の帰り道のこと。会社の近くにある公園で夜桜を見ようと思った。ベンチに座っていると、近くを歩いていたスーツ姿の男性に声をかけられた。

「もしかして、夏希?河平 夏希か?」

暗かったせいで顔が全く見えなかったけどその声に聞き覚えがあった。

「遼?」

ベンチの近くまで来ると電灯の灯りで顔が見えた。

「ああ、やっぱり夏希だ。久しぶりだな」
「うん、久しぶり、遼。元気だった?」
「まあな。ところで何やってるんだ?」
「お花見」
「そうか。…俺、今はこの近くに住んでんでんだ。もし良かったら来ないか?ケーキくらいならすぐ作ってやれるぞ」
「マジ?行く行く!」

ケーキなんかで行こうとしている私は我ながらに馬鹿だなーと思った。

彼が言った通り、遼の家は公園から歩いて1分のところにあるアパートの2階だった。中に入ると少し狭めのワンルームに炬燵とテレビと冷蔵庫があるだけだった。

「炬燵に入って待ってな。すぐ作ってやるからよ」
「ありがと」

炬燵の上の机に置いてあったスイッチのつまみを回すと中に入れた足がじんわりと温かくなった。
公園にいるときは浮かんでいた雲が風で流れていったため、今度は月が空に浮かんでいた。
月の光、風が桜の木を揺らす音。それらが何故かとても心地よくて…

「…寒っ」

桜が咲いたというのに未だに冷たい風で目が覚めた。どうやら、遼を待つ間に机に打つ伏せて眠ってしまったらしい。起き上がろうとしたら肩から毛布が落ちた。私のことを気遣って遼が掛けてくれたみたいだ。
ところで、遼はどこにいるのだろう。そう思い、周りを見回すと炬燵の向かい側に足を入れ、仰向けになって本を顔の上に乗せながら寝ていた。なるべく足音をたてないように近づき、そっと本を持ち上げた。月明かりでまるで子供のような幼い寝顔が見えた。

「ん…夏希。起きたのか」

彼の瞼がゆっくりと開いた。

「疲れてるのに作らせちゃってごめん。もう帰るからこのまま寝てていいよ」
「いや、せっかくだから食ってってくれ。今用意する」

コタツから這い出て電気を付け台所に向かう遼の姿はまるで…

「…お母さんみたい」
「…うるさい。ところで、酒は飲めるか?」
「明日は仕事休みだし、少しだけなら飲めるよ」
「それならよかった」

遼は緑色の細長いビンと透明なグラスを机の上に置いた。
"ポン"という威勢のいい音がし、傾けられたビンから流れ出た液体がグラスを琥珀色に染めた。

「もしかして…シャンパン?何もめでたくないのに?」
「ちょっとお前に見せたいものがあってな」

そう言うと遼は冷蔵庫から小さいショートケーキを取り出した。

「流石は製菓学専攻。パティシエに近づいてるね」

隣に座った彼の方を見るとなんだか照れているようだった。改めてケーキを見ると、一番上に小さな指輪がトッピングされていた。

「この指輪は一体何?」
「よくぞ聞いてくれた!これこそ俺の努力の結晶だ」

遼はそれを摘まむと私側のグラスに入れてしまった。指輪は底つくまでにほろほろと溶け、見えなくなってしまった。

「飴細工?」
「ああ、そうだ。あなたのために甘くしておきました。なーんてな。ほら、飲んでみな」

遼に勧められて飲んだシャンパンは彼の言う通りで、いつもよりも甘くなっていた。

「うん、とても飲みやすいよ。ありがとう」
「どういたしまして」

遼は私から目をそらすと窓から景色を見始めた。

「月が…きれいだな…」

6年前にも彼は同じことを言った。その時の私は、その言葉の本当の意味を知らなかった。大学生の時に友人からあの言葉には告白の意味が含まれていることを聞いてからずっと後悔していた。どうして、彼の気持ちに気付いてあげられなかったのだろう、と。でも、もう昔の私じゃない。今度こそは彼の気持ちを受け止めるんだ。

「わ、私…」

優しい眼差しで微笑みながら彼が振り向いた。

「私死んでもいいわ」

遼は真顔に戻り、持っていたフォークを落としかけた。

「…お前、もしかして…覚えていてくれたのか?」

私は黙って頷いた。
次の瞬間、私は一気に遼の匂いに包まれた。
彼が私を抱き締めたのだ。

「…遼」
「覚えていてくれてありがとう。いつ好きになったのか覚えていないくらいずっとお前のことが好きだったんだ」
「うん」
「でも、この気持ちを伝えて、夏希との日常が変わってしまうのが怖くて…遠回しにしか伝えられなかったんだ」
「その思いに気付けなくてごめんね…この6年間その事で後悔をし続けてたの」

そっと彼が私から離れた。
そして、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「夏希、好きだ。大好きだ。愛してる。老いたとしてもお前を愛し続ける。俺は必ず夢を叶える。その後で絶対にさっきの飴細工のような偽物じゃなくて本物の指輪を渡す。だから、俺と…結婚してくれ」
「はい。私を世界で一番幸せなお嫁さんにしてね、遼」

どちらともなく近づいて唇を重ねた。
はじめての彼とのキスはさっき飲んだシャンパンよりずっとずっと甘かった。

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