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夢老い人

ガラス工房に展示された作品の数々を見るにつけ、その形状の玄妙さに心躍らせてしまう。

いわゆる工業製品のグラスと違って、整っていないそのカタチがなんだか温かく感じる。たぶん、そのファジーな感触が生きているように思えるからだろう。
「いらっしゃいませ。いつも来てくれてありがとうございます。どうですか?そのグラスが、三代目の自慢の一品なんですよ」
なんて、その店主は言わなかった。
ただ、カウンターに座って、黙したまま、中途の作品を磨き上げている。ゴツゴツとした荒削りの、まるで産声すらあげられない赤ん坊のような作品が、その手によって光を放ち始める。たぶん、それは序曲のような、自らを形容するかのような声なのだろう。店主が、その節くれだった手で、磨き上がった作品を眺める姿が眩しかった。白髪混じりで、ひたいの広い赤ら顔が、少し微笑みを浮かべ、瓶底眼鏡の奥で、柔らかい瞳が輝いていた。

その日はいつもと違っていた。店主はぼんやりと椅子に座り込み、何も見えていないようだった。右手と左手を摺り合わせながら、どこか遠く彼方に魅入られているようだった。ただひたすらに、歩き続けた登山家が、限界を覚えて座り込んでしまったように思えた。それは寂しい気分になる光景だった。何かの終わりは唐突に訪れるものなのかもしれない。初めて、陳列された商品を手に取った。眺めるだけで満足だったけれど、何か1つでも、と欲する気持ちが抑えられなかった。
手に取ったグラスは、エメラルドブルーの爽やかな光を放っていた。透き通ったグラスは、世界の色を密やかに染めていた。その先に見える世界は、静かで、穏やかで、少しさみしいものだった。カウンターで店主に差し出すと、
「3240円です」と言った。月並みで、面白みのない言葉だ。店主の声を聞いたのはそれが最初で最期だった。

それからあの店には行っていない。どうやら、今は美容院になってしまったらしい。グラスはたまに使っている。その爽やかな色合いに、ビールを注ぐと、苦味以外に、少しだけしょっぱい気がする。ただ、それが無性に懐かしくて、ついつい深酒してしまうのだった。

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