引き換え
音声ニュースは木星調査隊の35年ぶりの帰還について一通りしゃべり終えると、同じ声で21時を知らせた。喫茶「ラグランジュポイント」にはまだ2人の客がいたが、年老いた店主は店番をロボットに任せ、眠ることにした。
ロボットには愛想も知恵もなかったが、オーダーと調理はできた。現金を扱うことはできなかったが、本はとうぜんチラシさえ電子化されていたこの時代、現金を使う客はまれだった。時々そのことをわかっていない客が、ロボットに腹を立てて暴れると言う事件があったが、そんなことはこの店では起こらない。そう、店主は踏んでいた。
準備万端整えた店主は、ふと気になって、寝室のパソコンから店内を伺ってみた。すると、見事に頭の禿げ上がった老人がロボットに詰め寄っている。老人は紙切れのような物をロボットに突きつけて、おろかにもロボット相手になにかをわからせようとしていた。
まだいたのだ、紙なんかを使う化石みたいなやつが!
ロボットが殴られたりしたら大変だ、修理代がいくらかかるやらと、店主は慌てて店に降り、2人の間に割って入った。老人をなだめつつ、老人の持っている紙切れを見る。
それは珈琲の無料券だった。紙はくたびれていて、インクも色あせている。店主は一瞬、これはうちのものではないと思った。
が、確かに、店の名前が入っている。しばらく見て、ようやく思い出した。30年以上も前――夫がいたころだ――確かにこの無料券を配っていたことを。
「期限が書いていなかったので、まだ使えるかな、と」
老人は笑いながら言う。ずっと昔に一度だけ来たことがあり、そのとき飲んだ珈琲が忘れられず、ずっとこの券を持っていたのだと。
「にしたって、何で今頃……」
店主が呆れながら言うと、
「そりゃぁだって、今まで宇宙にいたんですから、私は」
老人は木星調査隊のメンバーだったのだ。
2人は無料券を間において、昔のことを語り合った。新聞が毎日配られていた時代、ロボットがおらず、大勢の人間が狭い地球に溢れそうになっていたころを。
時折ロボットが足音を忍ばせてやって来て、2人のために珈琲を注いだ。
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