日常 | 文字数: 2313 | コメント: 0

ネズミだけでは足りない

 育ての親が出かけて行ったきり、帰らない。もう一カ月になるだろうか。携帯に出ないことはあっても、折り返してこないことはなかった。

 瑞(みづち)は目を覚ますと、寝室の窓から――顔を出さないようにして――外を眺めた。育ての親が丹精込めて耕した畑が広がっている。草取りをする人間がいないので、今では雑草が伸び放題になっていた。

 やはり世話をしに出るべきだろうか。瑞はクローゼットを開けて、フード付きのパーカーを取り出して、ベッドの上に放り投げた。これを着て出るのは、他に手がなくなったときだと決めている。

 育ての親に電話をかける。電話そのものが繋がらない。瑞は携帯を与えられておらず、他の電話番号も知らない。すでに高校に通える年齢だが、教育を受けたこともない。

 睨むようにして外を眺める。畑の向こう、低い塀の先には農道があるが、一台の車も通らない。居間に降りて、テレビの電源を押す。反応がない。昨日の昼から、電気そのものがつかなくなった。水道も使えなくなったので、裏手の井戸から水を取っている。

 さすがにおかしいと、瑞にもわかった。

 瑞は部屋に戻ると、パジャマから普段着に着替え、それからパーカーを羽織った。一階に降りて、玄関の扉の前に立つ。鍵を回し、ドアノブに手をかけたところで、動きを止める。目を閉じ、集中するが、扉の外は見通せない。金属の扉の冷たさが感じられるだけだ。

 ふと、彼女は荷物のことを思い出す。

 三週間前、彼女が家に独りでいるときに、宅配便が来た。育ての親には「居留守を使っていい」と言われていたのだが、その時は夜で、しかも、部屋に明りがついていることを見られていた。

「居留守止めてくださいよ」

 と怒鳴られて、怖くなった瑞は返事をしてしまった。

「扉の前に置いておいてください」

 二週間前にも、同じ配達人がやってきた。その時は朝で、声も穏やかだった。

「先週お届けした荷物、置きっぱなしですがいいんですか? 大きすぎて動かせないなら、お手伝いしますが」

 瑞は返事に困った。「大丈夫です!」と何度も連呼して追い返したが、確実に怪しまれただろう。

 その時の荷物は、まだ外に置いてある。育ての親宛の荷物だから、中身が何かは知らない。時折、自家生産できない食料を頼むこともあったから、生ものである可能性もある。

 だけど、もし外に出たときに、うっかり配達人と出くわしたら? 瑞はぶるりと身を震わせた。

「夜を待とう」

 そうつぶやくと、鍵を閉めるのを忘れたまま、階段へ向かい、地下室へ降りた。朝から何も食べていない。朝食をとるべきだった。

 この家の地下は、瑞の生みの親が違法に増築した通路と部屋が連なっていて、さながらもぐらの巣のようになっている。部屋の中には、遺伝子工学の本やら器具やら、瑞には理解できないものが詰め込まれており、最奥の部屋には入室することすら禁止されている。

 瑞は細い通路を進み、いくつか角を曲がったところで、おもむろに屈みこんだ。通路の壁や床は傷だらけで、絶えず何かの動く音が聞こえている。瑞は目を閉じると、息を潜めて待った。

 暖かいものを感じた。体の中ではなく、外に。壁にあいた穴の向こう側に。それは俊敏に動きながら近づいてきて、瑞の前を横切った。石のように固まっていた彼女の腕が、鞭のように素早く伸びて、それを捕まえる。

 瑞が目を開けたとき、彼女の手の中で一匹のネズミが暴れていた。瑞はネズミを両手で握ると、おやつのモナカを割るような何気なさで首を折り、頭に齧り付いた。

 ぼり、ぼりと音を立てて咀嚼しながら、育ての親を思い出す。育ての親は、瑞とは似ても似つかなかった――生みの親でさえ、瑞とは全然似てなかったけれど――生みの親と違って、育ての親は、瑞のことを気味悪がったりはしなかった。

「お前が羨ましいよ」と言ってくれたことさえある。

「ネズミ食べたいの?」

「違う。ネズミだけ食べてれば生きていける、その体質が、だ」

「みんなは違うの?」

「栄養が足りなくなる」

「やってみたら?」と瑞が言ったら、育ての親は非常に変な顔をした。その顔がおかしくて、瑞は笑ってしまった。

「一生、ネズミだけ食べて生きて行けと? よしてくれ」

 そう、みんなは違うのだ。普通の人は、ネズミだけでは生きていかれない。だから育ての親は、肉を買うために町へ行った。そこでたぶん、事故か何かに巻き込まれたのだろう。感染したというのもあり得る。

 そうだ、一か月前。ロックダウンに反対する人々が、暴徒化したというニュースをやっていた。その後からだ、親と連絡が取れなくなったのは。

「夜を、待つんだ」

 瑞は考える。もし、生きている人がいなくなっても、自分なら生きていけるだろう。自分には、ヒトにはない力がいくつもある。普通の人は、周りの温度を感知することなどできないし、ネズミを素手で捕らえる術も知らない。でも。

 一生、一人だけで生きていけ、誰かにそう言われたら、私だって。

 頬を伝う冷たいものに気付いて、瑞はそれを乱暴に拭う。手のひらに固い感触が触れる。階段を上って、洗面所へ向かうと、鏡の中には、ヒトとは異なる相貌の少女が映っている。頬に鱗を持つ、蛇に似た、異形と呼ばれたその顔を、パーカーのフードで深く隠して、少女は外へ出た。

 外の世界へ、仲間を探しに。

コメント

コメントはまだありません。