日常 | 文字数: 1277 | コメント: 0

セミの鳴かない夏

 セミの鳴かない夏だった.海は私の前に静かに横たわっていた.波は止んだ.記憶を持たぬ私は幻覚と妄想という一種の別世界の住人でもあった.記憶を求めて私は海底を目指す.海底では鯨が私の記憶を食べていた.楽しかった思い出や悲しい思い出、私が失った記憶さえ食べていた.私は泣いた.その涙は海を満たすと、何食わぬ顔をして混ざった.
 私は何か思い出さなければならないことがあるような気がしていた.いや、むしろ思い出すことが使命であるように感じられた.私は幻覚と妄想の中に答えを見出すよりほかなかった.鯨が失った記憶を吐き出した.その記憶に私は駆け寄る.
 私は海の家へ向かった.中へ入る.するとそこには病院のベッドが並んでいた.病院?そうか.
                 追想
 あれは二年前の今日のことだった.母親の容体が急変したと聞いて私は病院へ向かった.母親は最早瀕死であった.母親とやり残したことなどいくらでもあった.胸が痛む.彼らは隠れて、今頃になって私の胸をつかんで離さないのである.ベッドの横には花瓶が一つ、寂しそうに佇んでいた.
                 ――
 私は貝を拾った.中身を見てみると、花が咲いていた.奇麗な、大きな赤い花である.花びらが一枚ひらりと舞い落ちた.私はその花びらの中に一瞬、母親の顔を見た.

                 追想
 母親は田舎の海の岩に咲く花を見たいと言った.私は海へ向かう.岩を登り、花を摘み、母親のもとへ向かった.母親の容体はさっきより悪くなっていた.時という真犯人は、私に姿を見せない.私は花瓶にその花をさした.母親は花と一緒に微笑んだ.そのあとのことは良く憶えていない.
                 ――
 私はふと母親はどこにいるのだろうと思った.この世にいないことはわかっていた.だが、この世にいないことは、この世界にいないことを意味しない.私は走り出した.海の上をわき目もふらずに.母親の後ろ姿が見えた.私は叫ぶ.叫びはそこら中にいた空気たちを震わせ、海に波を起こさせた.母親は言う.いや、母親の霊であるか.
 「ずいぶん待ったよ.遅かったねえ」
 「……ごめん」
 「いいのよ」
 母親の手にはあの赤い花があった.
 「花.ありがとうね」
 私はこんなことをしている場合ではないと思った.
 「言いたいことがあるのだろう」
 母親はゆっくりと、波に同調していった.
 「あなたはもう一人でやっていけるわ」
 波が荒れてきた.私はその現実を受け入れることができない.
 その時であった.あの貪欲な鯨が母親をさらっていったのは.波がさらに荒れる.私は泣く.
 気が付くと私は、元の砂浜にいた.足元にはあのベッドの横にあった花瓶が転がっていた.中にはメモが入っていた.
 『あなたとの思い出たちと私.鯨の腹で永遠になれ』
 母親はもういない.けれども私は一人で生きる.舞い落ちた花びらが目の前を通っていった.
 

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