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じいじのファンレター その1「怜ちゃんへ」

〇 聖泉女学院高校 正門  ある秋の日の夕暮れ、いつものように自転車や徒歩で下校する生徒たちのにぎやかな声が聞こえてくる。 近くに一台の軽自動車が停まった。窓を開けて老人が柔和な表情で外を見ている。禿げ上がった頭に風が当たり、頭頂部に若干残った白髪と口の周りの白髭を揺らしている。その長い髭を手で撫でながら考え事をするのがこの人のクセである。 老人は古沢重雄、70歳。高卒以来勤めてきた市役所を退職後、現在は新聞配達で小遣い稼ぎをしている。趣味は野菜づくりとカラオケだ。待ち人は孫の理恵で17歳の2年生。吹奏楽部でクラリネットを吹いているのだが、コンクールが近くなると放課後の練習がハードになり、帰りはこうしてじいじにクルマで迎えに来てもらう習慣になっている。ふだんは自転車通学だが、古沢家は高校から20キロも離れているので、若いとは言え特訓でバテた理恵の体には遠すぎるのだ。 重雄は理恵を迎えに行くのも楽しみのひとつになっていた。なぜなら車中で孫に話相手になってもらえるからだ。超安全運転で引っ張っての約30分は、じいじと孫娘との雑談タイムである。 重雄の目に、小柄な体に重そうな荷物を抱えながら正門を出てくる笑顔の理恵が映った。 「じいじ、お待たせ!」  慣れた手つきでドアを開けて後部座席に荷物を放り込み、助手席に座る理恵。 「練習、きついんだろ」  いとおしむような目で理恵の横顔を見ながら声をかける重雄。 「うん、まあね。でもとにかくやるっきゃないんだわ……」  白目を見せるように重雄の方に顔を向けてつぶやく理恵。周りからは女優の松岡茉優に似ていると言われる美人の理恵だが、じいじと話をする時は思い切った変顔を見せるのが常である。 「なんだ、その顔は… せっかくの美人が台無しだなあ」 「さあ、じいじ。今日は何のお話? 誰に手紙を書いたの? 早く聞かせて!」 理恵もわきまえたもので、重雄が迎えに来ると車中で話すことが決まってファンレターの中味であるので、先に自分から本日の相手を訊いてくるのだ。 重雄は感激しやすい気性の持ち主で、何かにつけ感激したり感動すると、その人物にファンレターを書くのであった。但し、それは投函されることのない幻の手紙であり、内容は家族の中でも何故か孫の理恵だけに語り告げられるのである。 「よし、じゃあ帰るか」 重雄はエンジンをかけてギヤを入れ、クルマを走らせながら語り始めた。 「今日のファンレターの宛先は、怜ちゃんだ」 「怜ちゃん? 誰だろ? 菊川怜じゃないよね?」 「まあ、聞きなさいって。誰だかすぐわかるから。お前も一緒に見たんだから。凄いね、凄いね、って言ってたんだから」 「なにかしら? わけわかんない」 「じゃあ、読み始めるよ」 と言っても重雄が手紙を取り出して朗読するわけではなく、頭の中に記されている手紙を読むのだ。それも重雄にとっては立派なファンレターなのである。 「飯田怜様 怜ちゃんと呼んでいいかな。怜ちゃん、このまえはとても立派だったよ」 「ああ、怜ちゃんってあの人ね、駅伝の……じいじ、思い出したよ」 「そうだろう。お前も一緒に見たよね、彼女が頑張っている姿をさ。今日のじいじのファンレターの宛先は彼女だよ」 「うん、わかった」  納得したようにニッコリと頷く理恵。 二人を乗せたクルマは市街地を抜けて、田園風景の国道へと入って行った。 「理恵、続きから話すよ… 怜ちゃん、おじさんは君の姿に感動したよ……」 「おじさんじゃない! じいさんだ!」 笑いながら理恵がチャチャを入れる。 「理恵、いいから、いいから、じいじの話を聞きなさい。… 怜ちゃん、おじさんは君の姿に感動したよ。だって、だってさ、あんなに四つん這いになって、膝から血を流しながら200m以上も頑張ってさ、そこまでしてタスキをつなごうとするなんて驚きだよ。今どきの若者は根性がない意気地なしだと思ってたおじさんにとって君の姿は奇跡のようでもあった。大げさではなく、ほんと、アスリートの魂を見せつけられたよ。そりゃあ、世間の意見はいろいろあるさ。君のことを思ってかどうかは知らないけど、専門的にはさ、すぐにやめさせるべきだ、美談なんかにするなボケ、とか、いろんな声があったし、それぞれに正しいことがあるのかも知れない。みんな君のことを真剣に思ってのことならね。そんなことは君もわかっていることだよね。でもね、でも、でも、おじさんは単純な人間だから、難しいことはわからないから、ただ、ただ、君のその懸命な姿に感動したんだ。おじさんには高2の孫娘がいるんだ。君より2つほど年下になるのかな。その孫とね、インターネットの動画でさ、君の頑張る姿を何度も何度も見たんだ。そして孫娘はね、名前が理恵っていうんだけど、君の姿に感動してたよ。ほんとに立派だって。周りの大人たちがいろいろ言っても、そんなこと関係ない、とにかく次の人にタスキをつなげたいという一心で、膝から血を流して四つん這いになってまで進み続ける君の姿は、自分にとって勇気の源になったって。理恵は吹奏楽部なんだけど、学校ではおじさんの知らない苦しい思いをしてるんだと思う。でも君がね、怜ちゃん、君のあの頑張りがね、こんな名も無い、ひとりの女子高生の心の支えにもなってるんだよ。そのことを感謝して、君に伝えたくて、伝えたくて、この手紙を書きました。おじさんの誰よりも大切な孫の理恵に勇気をくれてありがとう。心から感謝します。古沢重雄」 「じいじ、ありがとう。怜さんは走り続けるよね。ケガなんかに負けずに走り続けるよね」 理恵の目から涙がこぼれた。 「そうであってほしいよ、お前に勇気を与えてくれた人だからね。理恵、忘れてはいけないよ、あの彼女の四つん這いの姿を… あれが、あれこそが若者の力だ。年をとってはけっして真似できない、若いからこそできる人間の力であり美しさなのさ。美談にするなだと!なにをぬかしやがる!怜ちゃんの頑張りは美談にするもなにもない、それ自体が美しい事実なのさ。怜ちゃん自身が決断して実行した最高の競技だ!」 「じいじ、あたしも練習、がんばるよ。きつくても怜さんの頑張る姿を思い出して頑張る」 「よし!それでこそ俺の孫だ。理恵、今は勉強も部活もがむしゃらに頑張る時だ。そしたら大人になって、きつい時でも乗り越えてゆく力が出てくるよ。そして、若い時に苦労しておいてよかったなと思うよ」 「うん。じいじ、ありがとう。あたし、頑張る」 そして理恵は、最近の学校での出来事などを快活に喋り続けた。 やがてクルマは自宅に近づいていった。 「さあ、着いたぞ」 重雄はエンジンを切って、ハンドルに手を懸け、理恵が玄関に入る背中を見つめながら、ほっと息を吐いた。(終)

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