日常 | 文字数: 718 | コメント: 0

月なんて見たくもない

「もう、月なんて見たくない」

 母はそう言った。そう言って、僕らに背を向けて、廊下の途中でアンドロイドを捕まえて、メンテをするから戻れと言って、階段をのしのし下っていった。

 二の句を継ぎ損ねた妹は、カーテンの横で窓の外を指さしたまま、ポカンと固まった。気を利かした(つもりの)照明群が明かりを落としていたので、妹の姿は月に照らされている。

 中秋の名月。

 壁に映し出されたカレンダー、今日の日付は“星”印でふちどりされていた。3年前、AIにスケジュールを管理させることをようやく覚えた母が、真っ先につけさせた印だった。

『今年の月見の日』家庭用プロジェクターが映し出す小さな文字が、白い壁の上に浮かんでる。

『帰りにおやつ買ってきてね。明日は月見だよ』僕らのスマホの中には、母のメッセージが記録されている。無意味に絵文字を多用した、子供みたいに浮かれたメール。

「母さんどうしたの」

 ようやく腕を下した妹が、ぽつりと言う。

「お前鈍いな」

 いつもの部屋から見上げた月は、いつもとちょっと違っていた。真っ白な顔の、右頬あたり、そこに緑色の光が瞬いている。

 AIが検索を初めて、プロジェクターの表示が変わった。ものの数秒もせずにニュースが表示される。

『月面工場、稼働開始』

 月の表に光る緑色の光、エメラルドのように硬質な光。あるいは、真っ白なバニラアイスに落ちたメロンソーダ。

「母さん、月が好きだったからね」

 妹が隣にきて、ぼんやりと空を見上げる。彼女はまだ高校生だ。成人する頃にはきっと、月はもっと、賑やかになってしまうのだろう。

コメント

コメントはまだありません。