発酵人間の噂
私の住んでいる地域では、菓子パン工業が盛んである。 2,3年前のこと、とある新興企業が菓子パンの製造を始めるということで、まあまあ大きめの工業地帯であるこの地域に工場が建った。外見デザインこそ一般的な工場であったが、周りのものと比べてかなり規模が大きい為によく目を引いていた。新興企業がそこまで大きな工場を建てるということは相当に利益の見通しが立っているのか、またはただ先を見ていないのか、などと考えたがその後の業績はみるみるうちに伸びてゆき、今では「コウセイのジャムパン」として子供たちにもよく親しまれている。しかしその子供たちから、最近どうも妙な噂が立っているらしい。 8月、今年は例年に比べれば涼しく、冷夏だと言われている。 それでもやっぱり暑くて、退屈なのも例年通りで。 高校の気怠い授業がやっとのことで終わり、家に帰る。 ただいまー、部屋に聞こえるように言って靴を脱ぐ。砂漠のオアシスに駆け寄るような一人芝居でクーラーの効いたリビングに入ると、弟のヨウスケが友達のマサくんを連れてきていた。 マサくんは弟と同じ小学生4年生であるが、気弱なヨウスケとは対照的で強情ないばりっ子である。しかしまあ、家にしょっちゅう遊びに来ているのを見ると、結構二人の仲はいいのだろう。私を見上げて嬉しそうな顔のヨウスケのおかえりを遮って、マサくんが言った。 「お、ヨウコの姉ちゃんだ!姉ちゃんも発酵人間、見に行かねえ?」 発酵人間…。学校でちらりと耳にしたことはある。なんでも、隣町のコウセイのパン工場では材料に醗酵させた人間の身体を使っているというのだ。馬鹿馬鹿しい噂話である。 「ふふ、マサくん信じてんだ?あんなの作り話に決まってるよ」 「んな事言ってヨウコの姉ちゃん、あの噂知ってやんのな」 「が、学校で聞いただけだよ」 このガキといると、何だか謎の恥ずかしい気持ちにさせられることが多い…。 「行ってみないと本当か嘘かなんてわかんないぜ、今から三人で確かめに行こうや」 えぇ、本当に行くのか。 「ちょっと、僕はまだ行くとは言ってないよ・・・」 「いいじゃん、人数いたほうがもし向こうで何かあっても証人が増えるぞ」 「ちょ、きみ証人て、何があるつもりだよ…」 そんなこんなで、私も退屈を余していたので暇つぶしだと思い3人で出かけた。隣町の工場までは自転車で30分程の距離で、まあ暑かったが途中の自販機でジュースを買ったりコンビニで涼んだりで何とかバテることなく工場まで到着した。 暇つぶしとはいったものの、実際工場を前にすると中々緊張するものだ。何せ小学生二人に高校生一人じゃあ何かあった時に責任を負うのは確実に私である。軽い気持ちでついてきてしまったが、そもそもどうやって工場に入るつもりだろうか。考えていると、マサくんが行動に出た。 「よし、侵入するぞ」 「え?!ちょっと…」 おいおい、まさかこっそり忍び込むつもりなのか?!なんて止める間もなくマサくんが柵を飛び越えた。ヨウスケも黙って後に続く。気が弱いくせにこういう時はすぐ隣のヤツにくっついていくのだ、こやつは。全く、困った子供達だと思いながらも二人を放って帰る訳にもいかず私もその後に続いた。表入口を避けて工場の裏に回ると、見上げた上の方に大きめの窓が半開きになっていた。そして目の前には運が良いやら悪いやら、そこへ繋がる鉄のハシゴが掛かっている。すかさずマサくんを先頭に二人がそれを登る。もう止めるのも億劫だった私もハシゴを登り始めると、二人は既に窓のそばにあるごく細い足場に飛び移っていた。猫専用ではないかと疑うほどに幅が狭い。 「あ、中が見えるよ!ヨウコお姉ちゃん、こっちこっち」 ヨウスケがウキウキしたように私を呼んだ。私も恐る恐る飛び移ると、落ちそうになりながら窓を覗く。見てみるとここは天井の高い作業場で、私たちの居たのは体育館でいうとギャラリー窓のような位置であった。下の方にたくさんの機械と作業員が見えるが、機械の音がかなり大きいので誰もこちらに気づいてはいないようだ。 中を少し見回してみたが、何の変哲もない普通の工場であった。元より信じてはいなかったが、人体をナンチャラフンフンしている様子がない事に私はホッとした。 よし、早くここから降りて帰ろう…と思った時である。 「お疲れ様です、休憩して下さーい」 中年男性の大きな声が工場に響いた。 従業員達がゾロゾロと出口へ歩いていく。 まずい、このままだと人が来て気づかれてしまう…そう思い振り向くと、マサくんが目を見開いて固まっていた。 「マサくん…どしたの?」 号令をかけた男性をジッと見つめて、言った。 「あれ、俺のオヤジ」 ・・・え??どういう状況だろうか。お父さんが働いている?ならば冷やかしにイタズラに来たということだろうか。しかしこの反応は一体…頭をグルグルさせていると、ヨウスケが口を開いた。 「マサくんのお父さんって、お家にいないんだよね…?」 間をおいてマサくんが答えた。 「うん、何年か前に母ちゃんと離婚してから遠くに行ったって聞いて、ずっと会ってなかった。…こんなに近くにいたなんて」 なるほど、それで戸惑っているんだ。 …年上なんだから何か上手い言葉をかけてあげたいと思うが、何も言えない自分が情けない。 間もなくして、マサくんの父らしき男性が工場を出た。工場には誰も残っていない。 「調べに行こう」 マサくんが窓を飛び越えて工場の内側にある足場へ乗った。 「え、ちょっと、調べるって何を?」 「あそこだよ」 指で指された先を見ると、工場の隅にあるドアだ。そこまでしなくてもいいだろうにと思ったが、何か意地のようなものを感じた。 またしてもホイホイと中に入っていってしまう二人に続き、後方で従業員(多分)の声が聞こえたことにびびった私も躊躇いつつついて行く。 ギャラリーを少し歩いた先の階段から降りて、そのドアまではすぐについた。マサくんもヨウスケもここは緊張しているらしく躊躇っていたので、私がノブを捻ると鍵が開いていてドアはすぐに開いた。そして、ブワッと煙が押し寄せる。 その先の景色は、あまりにも予想外で私達を驚かせた。 「なにこれ、温泉…?」 そう、押し寄せたのは煙ではなく湯気であった。 室内は作業場と同じくらいの広さがあって、ヨウスケの言葉通り、まるで温泉のようにお風呂が並んでいる。しかし一体なぜ…三人で頭の上にハテナを浮かべていると、背後から声が聞こえた。 「君たち、何をしているんだ?」 まずい、見つかってしまった…サッと血の気が引く。 多分閉め忘れた鍵をかけにきたのだろう。ゆっくり振り返ってみると、そこに立っていたのはさっきの中年男性だった。マサくんの、お父さんと思わしき人物。 「ん…おまえ、マサノリじゃないか!?」 「オヤジ・・・」 「どうしたんだ、こんな所で!もしかして会いに来てくれたのか!?」 マサくんのおやじさんは、ぱあっと明るい顔に涙をうかべ彼を強く抱きしめた。 それから少し話をして、勝手に工場へ入ったことをあやまり、あの場所は従業員の疲れを癒す銭湯であったことがわかった。なんでも、詳しくは企業秘密だが特別な製法でパンをつくるため大量のお湯を使うのに温泉を引いていて、せっかくだからと従業員のための温泉施設を作ったら作業効率が急上昇したらしい。そしておやじさんは、マサくんと一緒に暮らすためにこの工場で働いてお金を貯めていたそうだ。例の噂も、温泉に入る従業員を目にした誰かがあほうな噂をつくったのだろう。 帰り道にはおやじさんも一緒についてきて、工場付近のコンビニで「コウセイのジャムパン」を三人分買ってくれた。お母さんに出会すといけないからと、おやじさんとはそこで別れた。いばりっ子のマサくんも、今日ばかりは嬉しそうな顔だ。 涼しくなった夕焼けが、三人の背中を赤く照らしている。 ふと。 ジャムパンの袋の原材料名に目をやると、苺ジャム、小麦粉、マーガリン…と並んで、最後の方にこんな文字があった。 「人脂」
(いいねするにはログインが必要です)

コメント
コメントはまだありません。