旧同タイトル | イベント: 同タイトル | 2022年6月 | 文字数: 1538 | コメント: 0

魔女の一撃

それを、どうしたって目覚めさせなければならなかった。 しかし薬は効かず、医師も頼りにならない。おまじないやアロマセラピーもダメだった。かくなる上は、禁忌に手を染めるよりほかにない。飛行機と船を乗り継ぎ、はるか西の彼方に住む耳の長い種族を訪ね、彼らの中で若くて世間知らずな魔女を、半ばだますようにして連れて来て、月の満ちる夜に、廃墟の地下室で魔術を試みる。 それは危険すぎるために封じられた、太古の呪術。ろうそくの灯が揺らめく中、赤い文字で描かれた魔法陣の中で魔女が呪文を唱えると、生贄にしたトカゲの死体が震え、命を持たぬはずの壁と床までが鳥肌を立てた。 何が起ころうと構うものか。私は部屋の隅にうずくまり、手を合わせて一心に祈っていた。 甦れ 甦れ 死んでしまった 私のモチベーション! それは社会人五年目のころ、先輩に怒鳴られたときに突然死していた。モチベーション。それは初心と情熱と真心と向上心の素敵な混合体。モチベーション。それがあれば無味乾燥な反復作業を喜んで繰り返すことはもちろん、守ったところで誰一人得をしない無意味なルールのために長時間残業をすることだってできる。 私はそれを、どうしても目覚めさせなければならなかった。それがなければ、この時代、一秒だって会社にいることはできない。 不意に呪文が途絶え、魔女が床に倒れ伏す。 私は恐る恐る、祭壇の上をのぞき込む。 モチベーションは死んでいた。 目を開かない。 モチベーションは死んでいた。 灰になっていた。 蘇らない。 もうできることはない。私は桜の根元にモチベーションを埋葬すると、家に帰って布団にもぐった。 次第に、布団の温もりが体を包み込む。あぁ。これより尊いものが果たしてあるだろうか? いったいどうして、この素敵な場所から離れて、冷たい風の吹くコンクリートジャングルへ向かわなければならないのか? そうだ、外に行く必要などない。私の欲しいものはすべてここにある。この温もりの中で息絶えるのならむしろ本望だ、私は泥のような安寧の中にずぶずぶと沈みこ 暖かい空気が一瞬にしてはぎとられ、身を凍らせるような外気が肌に刺さった。 「さむっ、さむぅ!」 布団が奪われたのだ。なんて非人道的な! いったいどこの鬼がこんな所業を! 目を開けると、白い顔の魔女が、目に怒りをたたえて見下ろしている。 「お金払って」 邪術の対価を、私は払っていなかった。彼女を故郷から連れ出すとき「蘇生に成功すれば大金を払う」と確かに約束したが。 「術は失敗しただろう?」 すると彼女の目が一段と冷ややかになった。頬に笑みが浮かぶ。 「人間の身体の中には、価値のある物がたくさんある」 「だ、だから何だ」声が震えているのは、寒さのせいだけではなかった。 「それぞれいくらになるか、一つずつ教えてあげてもいいんだけれど」 骨の芯まで凍る心地がした。腐っても鯛、若くても魔女なのだ。小悪魔と言うべきかもしれない。 「で、どうする」 「ぶ、分割払いなら……」 魔女はしぶしぶうなずいた。 時計を見ると出勤時間が迫っている。何とか布団から抜け出してスーツを着、コートを羽織る。支払い終えるまでいったい何年働けばいいのやら。考えただけでめまいがしたが、魔女はすっかり不機嫌を治していて、毎日ご飯ぐらいは作ってあげるとにっこり笑う。 お前ここに住むのかよ。 外に出ると、風が冷たく、布団のぬくもりが恋しかった。が、仕方がない。これが運命なのだと、そう思ってあきらめた。

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