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雨の体温

「なんでお仕事するの?」
昔、父に聞いたことがある。
その答えは父の口からだけではなく、中学生のときに受けたキャリア教育の中でも散々聞かされた。
「家族に幸せになってほしいからだよ」

その質問もこの人にすれば、同じような答えが返ってくるだろうか。

ぽつり、ぽつり、とキートンのスーツにしみが増えていく。しみ同士が重なって大きく情けないしみになる。
2人は駅の真ん前で突っ立っていた。
____だからね、楓。
いつも通りに優しく諭す彼が、降り出した雨に焦りを見せ始めた。
彼の中で、ここで別れを告げて、泣き出した私に優しくキスをする。そして2秒抱きしめたあと家に帰る、というストーリーができていたのかもしれない。
なんとかストーリーに沿わせようとして土砂降りの雨の中私を宥める彼は、駅の光を受けてとても滑稽だ。

____だからね、楓。さよならをしよう。

頬に当てられた手。キスをするのは早いだろう。私はまだ泣いていない。

……そんなに奥さんの元へ帰りたいの?

手をそっと外した。
雨でぼやけていく彼を、私は冷たく見つめる。

そんなに奥さんの元へ帰りたいなら、初めからこんな関係を拒んだらよかったじゃない。

この言葉は言えなかった。
でも、この天気予報も確認して来ないような先の見えない男でも、私の伝えたいことは分かっただろう。
彼が黙ったのが分かる。
私がこうして引き止めてる間にも、彼の妻と子供は帰りを待っている。その家族が幸せになるよう稼がれた金で、私は貢がれていた。バッグも、欲しいと言ったオーデコロンも、ディナーも。全部全部。
2人が出会った経緯はもう忘れた。でも出会った頃は、夜景のように明るい幸せを私は感じていた。彼もそう。別れ際のいつものキスは曇りのない幸せだった。
彼に家族がいる、と知るまでは。
あの時の彼の諭す顔はとても腹立たしいものだった。なんとかタブーを濁そうとしているような____いや、まず独身と嘘をついて私と関係を持ったことに苛立った。
そして今夜、彼に別れを告げられ、形容詞では言えないくらい情が混沌としている。怒りとか、悲しみとか。きっとそういうものじゃない。

雨足が強まった。彼のスーツはもはや違う色に変化している。しみが全てを覆ったようだ。
終電まであと3分。

……ねえ、もう行きなよ。

そう言うと彼が小さな声で何か呟いたけれど、雨の轟音で聞こえない。聞きたくない。
びしょ濡れのバックを握ってない右手に力が入る。
断ち切らなきなきゃ。この関係も、思い出も。全部振り切らねば。

……私、幸せだったから。あなたがこの鞄をくれた時も、初めて夜景を見た時も、初めてキスしたときも……今でもあの時の体温が残ってる。

____かえ、で?

……でもね、私たちのあの時の体温は“罪”なの。あなたの奥さんが知ればさぞかし悲しむでしょうね。あなたはそれを知ってて私と関係を持った。そうでしょう?

言わなければ。伝えなければ。
思い出を地面に叩きつけるように叫ぶ。

……あなたが一瞬でも奥さんより私を優先してくれた、それだけもう十分だった。私に悔いはないから、今すぐ立ち去って!

勢いに任せて彼の頬を打った。息が上がっている。私の体の熱を散らすように、雨がさらに強くなる。どこかで稲妻が走っている。
彼は頬を押さえる。そして目を細めてパクパクと口を動かした。

____ごめんね、と。

キートンのスーツは、情けなく駅の中へ消えていった。
雨か涙か、雫が頬を伝う。
気が付けば泣いていた。ビルの街に、たった1人で。結局彼は私にキスをしなかった。

____なんだ、哀しいじゃん。

冷静に考えれば、形容詞一つで言えてしまえるようなちっぽけな感情であった。携帯に触れ、時刻を確認する。
彼はどんな気持ちで ごめんね と言ったのだろう。もう電車は発車したのだろうか。
私は唇を撫でる。
まだ彼へ未練が捨てられない自分に、笑った。いや、笑いながら泣いていた。
連絡先の彼の名前は、まだ消せずにいる。

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