日常 | 文字数: 2149 | コメント: 0

いっそ、いっそ幸せに

 月曜日の昼下がり、辛島アンナは床に転がっていたカップ麺を掴んで、ビニールを剥いだ。無人のコンビニから拝借してきた食品の、最後の一つだった。電気ポットに水を注ぎ、沸騰ボタンを押してから、ラジオの電源をつける。

 イヤホンを耳にはめると、アナウンサーの声が聞こえた。

「この放送は、今もなお自主避難されている方に向けて発信しています。パラサイトの治療方法が発見されました。早期に治療を行えば後遺症もなく治癒します。自主避難されている方は、速やかに最寄りの市役所に出頭してください」

 声は優しく流暢なのだが、時折、妙なところで高くなる。

 出頭、と聞こえたところでアンナは小さく笑った――頬をひきつらせたと言う方が正確かもしれない。化粧もしていない肌はボロボロだった。もう何日も眠れていない。日が落ちるとクローゼットに閉じこもって息を殺す、そんな日が続いていた。

 アンナはイヤホンを外すと、部屋の東側にある窓に近寄った。明り取り用に取り付けられた小さな窓で、鉄格子がついているから、人間が入ってくる恐れはない。もちろんカーテンは閉じている。

 南側にはベランダへ出るための窓があるが、こちらはシャッターを下ろしている。明かりもつけていないので、室内に人がいるかどうか、外からはわからないはずだった。

 アンナは突然、身を強張らせた。誰かが壁の向こうを歩いているのが聞こえる。笑っている。「幸せだっ、幸せだっ」声がしている間、アンナは息をひそめて、水面の鳥が飛び去るのを待つ魚のごとく、微動だにしなかった。

 声が遠くなり、聞こえなくなった。

 アンナはほっと溜息をついた。台所に戻り、電気ポットが沸騰の合図を鳴らす前に、その電源を切る。ぬるま湯をカップ麺にそそぐと、スマホを取った。

 日本のニュースサイトのトップは「パラサイト根絶間近」だった。「自主避難者4名、自宅で餓死」「自主避難者への呼びかけ強化を」

 アンナはページを変えて、アメリカのサイトを開く。日本とは毛色が違う。「崇めるべきものを崇めよう」「信仰を広めよう」

 韓国のサイトはこう言っている。「脳喰い虫は存在しない」「デマを流布したのは誰か?」「フェイクニュースに大国の影」

 パラサイトについての見解は、目が回るほどバラバラだった。が、どの国、どのニュース、どのSNSにも共通点があった。以前は呆れるほど多く出回っていた、くだらない世間話――不倫にコピペに動物の写真――それらが一切ないのだ。

 誰もかれもがパラサイトについて話している。それだけではない。誰もかれもが同じことを言っている。

「パラサイトはもう安全だ」

 脳喰い虫の危険を訴える記事はなかった。いや、数日前までは確かにあった。が、すべて消えていた。

 友人からのメッセージを見た。「返事してよ。生きてる?」未読のものが数千通。どれも同じ内容だとわかってる。「避難中? 出てきなよ」「もう問題ない。私も治った」「手遅れは悲しいよ」みんなが同じことを言う。

 アンナは放るようにスマホを手放した。時計を見ると、すでに十分が過ぎている。伸びきったラーメンを手に取り、音を立てずに食べた。

 どんどんと、何かを叩く音がした。

 むせそうになるのを必死でこらえた。ベランダからだ。窓の向こうに下ろしたシャッターを、誰かが叩いていた。

「自主避難者の方ですか?」

 アンナは床をじっと見つめたまま、石像のごとく固まっていた。容器を手に持ち、麺を口にくわえたまま。

 それが単なる見回りだということを、彼女は知っていた。一日に数度、政府からの派遣者を名乗る何者かがやって来て、そこらの家を片端から回っているのだ。

「治療薬を持ってきました。感染していたとしても、早期であれば治癒する可能性があります。どうか怖がらないで、出てきてください」

 アンナは動かなかった。声は誠実で、温かみがあった。人間以上に聞こえるくらいなのに、なのに時折、妙なところで高くなる。

「もう怯える必要はないんです」

 容器を持った腕の震えがひどくなってきた。アンナはゆっくりと、容器を床に下ろす。さび付いたブリキ人形みたいに首をひねって、ベランダの方を見た。

「私はあなたを助けたい」

 アンナはぎゅっと目をつぶった。

「私はあなたを、幸せにできる」

 パンデミックが始まったばかりのころ、どんなニュースが飛び交っていたか、アンナははっきり覚えている。見出しには「人間の心を操る可能性」とあった。人間の脳に取り付き、神経回路をハッキングして“幸せ”にしてしまう、それがパラサイト、脳喰い虫だった。

 目を開けると、部屋の中が見えた。外の世界は明るいのに、ここはまるで洞穴のようだ。

 やがてアンナはため息をついた。自分の中身をすべて吐き出してしまうような、長い長いため息だった。目の端に浮いた涙をぬぐいもせずに立ち上がると、震える腕を伸ばし、錠を外して、彼女は窓を開けた。

 そして幸せになった。

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