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小さな指輪

「課長休み?」

 男性社員の声がやけに大きく聞こえた。氷室カリンがパソコンから目を上げてカウンターの方を見ると、受付担当のアリサが、営業から戻った社員と立ち話をしている。

 男性が口元で手を隠して何かを言い、アリサが猛然と首を振る。男性社員とカリンの目が合って、彼がさっと目をそらす。カリンはため息をついた。

 聞かなくても、彼がアリサに何と言ったかわかった。今朝から、もう五回は繰り返されたやり取りだった。

「総務課長休み? なんで? あ、わかった。凍傷でしょう」

 季節は夏、今季最悪の猛暑日と呼ばれた日の昼下がり。帰社した社員は汗まみれ。

 カリンはコップを手に取り、勢いよく傾けた。冷たい塊が歯にぶつかって、いらいらとコップを下ろす。コップを覗くと、麦茶に薄氷が張っていて、それはみるみる大きくなっている。向かいに座るパート社員がくしゃみをして、「さむっ」と呟く。

「離席します」カリンが言うと、

「えっ」少し離れた席の先輩が言った。「行かないでよゆきんこ」

 制服のポケットで携帯が鳴った。アニソンのような、妙に軽快なメロディが流れ出すのを聞いて、主任がひらひらと手を振り「いいよ、行っといで」

「失礼します」

 カリンはぐっと拳を握る。右手人差し指にはめた指輪を意識する。


 会社の裏に大きな桜の木があって、午後になると木の影がベンチを覆い、良い避暑地になる。携帯が鳴るたびに、カリンはここにやってきた。

 着信したメールを開く。特異体質者支援センターからの警告だった。

「あなたの興奮状態が続いていることを感知しました。可能な限りその場を離れて、興奮を静めてください。その状態が継続する場合は、特異体質者支援センターに電話して――」

 カリンはベンチに深く腰掛けた。

 天を仰ぐ。木漏れ日を見上げて、葉っぱの数を数えようとする。

 それが彼女なりの瞑想だったが、今日はなかなかうまくいかない。

 ふと足元を見ると、靴の裏に霜がついてた。

 またため息。

 休憩を始めて十二分が過ぎていた。「興奮」は全然収まった気がしない。主任は「収まるまで帰ってこなくていい」と言ってくれているのだが、十五分以上離席すると、周囲の目はびっくりするほど冷たくなる。

 カリンは社内に戻った。先輩が「ゆきんこ遅い、熱中症になった」とおどけて言い、パート社員がくすくす笑う。「すみません」と言いながら、カリンが仕事に取り掛かると、少し蒸し暑くなり始めていた室内が、だんだんと冷えて行く。

「やっぱり涼しいね」と先輩。「一課に一台、ゆきんこちゃん」

 何度目だ、と思いながらカリンは言う。「十万人に一人しかいません、雪男女は」

 カウンターでは、アリサがまた同じことを言っている。「だから違います。理由は非公開です」


 その日の夕方、再交付された保険証を届けに、カリンは三階へ上がった。

 ほとんどの社員は出払っていて、フロアはがらんとしている。奥で、営業事務が二人、パソコンに向かっていたが、近づくうちに声が聞こえて来て、カリンは思わず足を止める。

「1」と、女性の声。奈良橋フミカだろう。「総務課長の入院理由は、社内に公表できないそうです。2.彼は先日、社会保険担当と口論していました。3.社会保険担当は、社内唯一の雪女です……」

「結論」と、男性のからかうような声。保険証の届け先、浮嶋ジュンヤだ。「総務課長は、部下に氷漬けにされたと思われます」

「言えないよねぇ。そんな破廉恥な」

「でも彼女今日出社してたよ。謹慎とかしないのかね」

「馬鹿ね」と奈良橋。二人ともカリンの存在に気づいていない。「部長だって、凍らされたくはないでしょう」

 何度目かのため息をついて、カリンは二人に近寄った。

「浮嶋さん」

「うわっ」「氷室、さん」

 奈良橋は慌ててキーを叩き始め、浮嶋は目を泳がせる。カリンは歯を食いしばって、無表情を取り繕った。

「健保から保険証が届きました。氏名を確認いただけますか」

「えっ、あぁ、落としたやつ。わざわざどーも……」

 保険証を渡すと、浮嶋は儀礼的に目を落として、こくこくとうなずいた。

 カリンはちらりと奈良橋を見た。彼女に渡す書類はなく、奈良橋の方も、わざとらしく高速タイピングしながら画面を凝視している。それでもカリンが立ち去らないでいると、奈良橋は画面を見つめたまま

「済んだなら行けば」

 浮嶋が「げっ」と声に出さずに言い、カリンはぎゅっとこぶしを握り締めた。頭の中に熱した鉄を流し込まれたような感覚が押し寄せて――

 携帯が鳴った。アニソンのような、嫌に耳につくメロディが、最大音量で流れ出す。

「失礼します」

 カリンは急いで背を向ける。事務所の出口に差し掛かったところで、奈良橋の声が聞こえた。

「うわ見て、床に霜ついてる。こっわ」


 非常階段に駆け込んで、カリンは携帯を開いた。右手が握ったままのドアノブにみるみる霜が付くのに気づいて、ぱっと手を放す。

 あたりに誰もいないのを確かめてから、メールを見た。

「直ちにその場を離れて安全を確保してください。確保でき次第、支援センターに連絡を取り、担当の指示を受けてください」

 カリンはすぐに指定の番号をダイヤルした。

「はい」と、訓練された穏やかな声が聞こえる。「こちら特異体質者支援センターです。どうされましたか」

「アラートツーを受け取ったためお電話しました。その場から退去して、安全を確保しています。職場の非常階段で、周囲には誰もいません」

「わかりました。簡易カウンセリングを始めます。まず、呼吸を整えて――」

 右手の人差し指、銀色に光る指輪を茫然と眺めながら、カリンは電話を続けた。


 鼓動が静かになったのを確かめてから、カリンは電話を切った。

 非常階段を出て、いつもは使わない三階の給湯室に向かい、紙コップに水を汲む。すぐには凍らなかった。少しだけほっとしていると、背後の戸が開き、誰かがはっと息を飲む。

 振り返ると、浮嶋ジュンヤと目が合った。

 すぐに出ていけばよかったのに、浮嶋が棒立ちになっていたせいで、出るに出られない。

「すみません、通っていいですか」と声をかけると

「えっ、あっ、ごめん」彼は猛犬を見た子供のように狼狽して、おっかなびっくり脇に退く。

 カリンはこぶしを握った。衝動的に発しかけた言葉を飲み込んでから、習ったばかりの外国語を話すときのようにゆっくりと、口を開く。

「私、そんなに怖いですか」

 話しかけられたことそのものに驚いてから、ジュンヤはぶんぶんと腕を振る。

「これ、なんだか知っていますか」

 カリンは右手を上げて、浮嶋に人差し指を見せた。銀色の、そっけないくらい単純な指輪がはまっている。

「知らない」

「安全装置です」

「安全、装置?」

「これ」次は携帯を見せる。画面には「興奮状態が続いています――」の文面。浮嶋は、エイリアンの遺物でも見るかのような顔で、メールを読んだ。

「特異体質者って、氷室さんのこと……」

「法律では、雪女、雪男って言わないんです。冷房体質保持者って言われていて、その『暴発』を防ぐ措置がたくさん取られています」

 暴発と聞いて、浮嶋の顔が青ざめた。有名な雪女が村を一つ氷漬けにしてしまった伝説は子どもでも知っているし、今だって年に数十件は、海外で特異体質者が暴走したと言うニュースが報じられる。

「この指輪もその一つ。感情が高ぶって暴走しそうになると、指輪が感知してメールを送ってくれるんです」

 何も言えなくなってしまっている浮嶋を見て、カリンは、これじゃだめだ、と自分を戒める。『きちんと話し合うことが必要です』と言っていたカウンセラーの言葉を思い出して、何とか言葉を続ける。

「私、ひょっとしたら他の人より安全ですよ。かっとなって人を傷つけることなんてないし、そもそもそんな自由もないですし、暴発したら、その日は警察署から出られませんし」

「それは、そういうつもりじゃなくて」

「じゃあ、どういうつもりで?」

「その、ただの雑談だよ。気に障ったなら、ごめん」

 カリンは歯噛みした。『お前の口を凍らせてやりたい』と雪女が言えば、それは十分に脅迫になる。

「わかりました」

 それだけ言い捨てて給湯室を出る。階段に駆け込んで鼓動を確かめると、メールが来なかったのが不思議なくらい脈打っている。ゆっくりと十回は深呼吸をしてから、カリンは自分の席に帰った。


 とぼとぼ歩く帰り道、雲がちな空の隙間から、赤い夕陽が睨んでいる。太陽を凍らせて海に落としたら、みんなどれだけ困るだろうかと想像して、カリンはうっすら笑みを浮かべた。

 靴先を眺めて歩く帰り道。

 交差点に差し掛かった時、カリンはアリサを見つけた。言わなければならないことがある。

 後ろから肩を叩くと、アリサは「ゆきんこ。おつ」と応えてくれた。

「今日はごめんね」とカリン。

「は、なにが?」

「みんなに聞かれて困ったでしょう。課長の入院」

「あぁ、あれね」

「かばってもらっちゃって、ごめん」

 アリサがもうたくさん、という顔をして、カリンはますます申し訳なくなる。

 するとアリサは突然、カリンの肩を両手でつかみ、ぶんぶんとゆすり始めた。

「ほんっと、今日私マジで頑張ったんだから。誰かに褒めてもらわないとほんと気が済まない。ね、私今日さ、一度も言わなかったんだよ」

「な、何を」

 アリサがカリンの耳に口を寄せて

「課長が、ウナギ焼いてて熱中症になったこと」

「は?」初めて聞く話だ。

「秘密な、部外秘な、機密事項だからこれ。言うなよ」

「本当に?」

「ほんとほんと。部長が電話で話してたの聞いちゃったもん。こりゃあ、言えないよねぇ。安全の座談会で『熱中症になった社員は新人からやり直し』とか言ったくせにさ、言えないよねぇえぇ」

「でも、みんなはそう思わないでしょ。みんな、私のこと疑ってたんでしょ」

「はぁ?」アリサの顔が険しくなった。「そーんな馬鹿いるの? うちの社内に? どこのどいつよその頭空っぽな奴は。そいつの脳みその方が大災害だっての」

 アリサは大声でからかうように言って、カリンの肩をポンと叩く。

「そんなことよりゆきんこ。私は君に言いたいことがある」

 今度は部下を詰めるときの部長のような顔になる。

 アリサはかなり表情豊かな方だが、ここまでころころ変わるのは珍しい。カリンにもようやく見当がついた。演技で明るくふるまってるくせに、相手にそうと悟らせないのが、アリサの才能だ。

「何?」

 カリンはありがたく思いながら演技に乗った。

「私は今日、冷たいビールが飲みたいんだ。キンキンに冷えたやつ。も、ち、ろ、ん、来るよな?」

「お断りしたりしたら」

「明日、君の席はない」

 アリサにそんな権限はない。さすがにここまでくると、アリサのおどけっぷりもちょっとだけ暑苦しい。だけどその暑苦しさが、カリンには嬉しかった。

「それじゃ逆らえないなぁ」

 天気予報は、今年最悪の熱帯夜になることを告げていた。だけどきっと、だからこそ、冷えたビールは極上の味がするだろう。二人は連れ立って、跳ねるように歩いて行った。暮れ行く街を。

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